ホリショウのあれこれ文筆庫

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第751話 残留日本兵の実態

序文・帰らなかった日本兵

                               堀口尚次

 

 残留日本兵とは、第二次世界大戦終結に伴う現地除隊ののちも日本へ帰国せずに現地に残留した旧日本軍将兵を指す。

 アジアや太平洋の各地に駐留した旧日本軍将兵は1945年8月の終戦により現地で武装解除、除隊処分とされ、日本政府の引き上げ船などで日本へ帰国し復員した。しかし、その一方で様々な事情から連合国軍の占領下におかれた日本に戻らず、現地での残留や戦闘の継続を選んだ将兵も多数存在した

  1. 終戦を知らされず、あるいは信じず現地で潜伏し作戦行動を継続したもの。
  2. 第二次世界大戦後、欧米諸国の植民地に戻ったアジアの各地で勃興した独立運動に身を投じたもの。
  3. 市街地への空襲や原子爆弾による日本本土の惨状を伝え聞き、家族の生存や帰国後の生活を絶望視したり、復員船は撃沈されるというデマを信じたもの。
  4. 日本で戦犯として裁かれることを恐れたもの。
  5. 現地語の話者である、あるいは土地勘や地縁があり、復員するよりも現地社会で生きていくことを望み、残留したもの。
  6. 技師やビジネスマンとしての才覚を買われ、現地政府に招聘を受ける、或いは半強制的に現地に留め置かれる形で残留したもの。

その他、多くの理由により日本本土への帰国を断念し、現地にて生活基盤を築くことになった。残留日本兵の総数は各国合計で約1万人であったとする研究者もいる。

 中国大陸では、残留日本軍が非軍人の在留日本人とともに多数が国民党軍や共産党軍に参加し、約5600人が国共内戦を戦った。山西省では国民党軍に軍人・非軍人合わせ約2600人の日本人が参加し、終戦後も4年間にわたり戦闘員として戦った。また、八路軍支配地域では旧日本陸軍の飛行隊長を始めとする隊員300名余りが教官となってパイロットを養成、総勢で約3000名の日本人が参加した。

 第二次世界大戦終結後、スカルノが独立宣言をしたにも拘らず、旧宗主国のオランダが再植民地化を試みイギリスなどの支援を受けてインドネシア独立戦争が勃発したインドネシアでは、日本軍から多くの武器が独立派の手に渡り、旧日本軍将兵が独立軍の将兵の教育や作戦指導をするとともに、自ら戦闘に加わるなどした。独立戦争終結後、インドネシアでは多くの元日本兵独立戦争への功績を讃えて叙勲されている。インドネシア残留日本兵は記録の上では総勢で903人とされている。

 フランス植民地支配下に戻ったベトナムでは、700人から800人の日本兵が残留するとともに航空機や戦車をはじめとした兵器が残され、ベトナム独立戦争中の1946年に設立されたクァンガイ陸軍中学などいくつかの軍事学校で旧日本陸軍将校・下士官による軍事教育が行われた。

 第一次世界大戦後、日本の委任統治領となった北マリアナ諸島サイパン島北方のアナタハン島に駐在していた軍人や民間人数十人が、終戦後にアメリカ軍から拡声器で終戦の通告を受けたものの、それを信じずそのまま自給自足の生活を続け、またその後彼らの存在を忘れたアメリカ軍はそのまま放置した。後に島に残った1人の女性を巡り残留者同士で殺し合った後、1950年6月と1951年6月にアメリカ軍に救出されるまで在留を続けた。

 上記の太平洋戦争における日本の敗戦に伴い発生した事例とは異なり、ソビエト連邦モンゴル人民共和国には太平洋戦争勃発以前から「残留日本兵」が存在していた。その殆どはノモンハン事件の際に捕虜となり、共産主義に転向したり、現地のロシア人女性と結婚するなどして、共産圏の民として生きる事を決意したものたちであった。シベリア抑留の折に、少なからぬ抑留日本兵がこうした残留日本兵に遭遇しており、抑留日本兵の中からも共産主義に転向してそのまま現地に残留するものも現れ、最終的に約800名が残留日本兵となった。

 残留した現地に同化したものや、独立運動などに参加したものの他に、ジャングルなどに潜伏し終戦を知らずに戦闘を継続した日本兵も存在しており、アメリカ合衆国グアム島に1972年まで潜伏していた横井庄一軍曹や、フィリピン・ルバング島に1974年まで潜伏していた小野田寛郎陸軍少尉らの事例がある。

 なお、厚生労働省は残留日本兵になったと推測される、戦死記録が無く引揚げを含む戦後の消息が正確に確認できない元日本兵が、2005年4月時点で21人いたとしており、内訳は中国16人、旧ソ連2人、樺太ビルマベトナムが各1人とされていた。