ホリショウのあれこれ文筆庫

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第805話 改易流配の家康六男・松平忠輝

序文・家康に嫌われてしまった

                               堀口尚次

 

 松平忠輝は、安土桃山時代から江戸時代にかけての大名。文禄元年に徳川家康の六男庶子正室以外の子〉として誕生した。側室の生母・茶阿局(ちゃあのつぼね)の身分が低いため、下野栃木城主で3万5,000石の大名である皆川広輝に預けられて養育されることとなった。

 忠輝は次兄の結城秀康〈家康次男〉と同じように、父親から生涯を通じて嫌われたとする資料は、江戸中期以降の史書に確認でき、その理由として容貌を嫌ったという記録が多い。

 『藩翰譜(はんかんふ)』には「世に伝ふるは介殿〈忠輝〉生れ給ひし時、徳川殿〈家康〉御覧じけるに色きわめて黒く、まなじりさかさまに裂けて恐しげなれば憎ませ給ひて捨てよと仰せあり」、と伝える。つまり、家康は生まれたばかりの新生児である忠輝の顔が醜いという理由だけで、捨て子扱いしたとある。同書には慶長3年、7歳の時に忠輝と面会した家康が、「恐ろしき面魂かな、三郎〈松平信康=家康長男〉が幼かりし時に違ふところなかりけり」と語ったとも伝える。

家康は、長男・信康の面影を忠輝に見いだしてたとある。忠輝は粗暴な一面があったとも伝えられている

 慶長19年の大坂冬の陣では江戸の留守居役を命じられた。剛毅な忠輝には不満が残る命令であり、なかなか高田城を出発しなかったが、岳父(がくふ)〈妻の父〉の伊達政宗の促しもあり、結局これに従った。慶長20年の大坂夏の陣で大坂に出陣した。伊達政宗の後援の下に大和口の総督を命じられたが、それ故の後方布陣により目立った軍功は挙げていない。同年8月、家康は忠輝に対し、今後の対面を禁じる旨を伝える使者を送った。

 元和2年、忠輝は兄の秀忠から改易を命じられて、伊勢国朝熊に流罪とされた。元和4年に正式に飛騨国高山の金森重頼に預けられ、寛永3年には信濃国諏訪の諏訪預水に預け替えとなった。

 忠輝は諏訪の配流屋敷で長年を過ごした。監禁生活ではなかったらしく、地元の文人と交流したり、諏訪湖で泳いだなどの話が残る。天和3年、幽閉先である諏訪高島城〈南の丸〉にて死去した。享年92。当時としても長命であり、徳川将軍は大甥の5代徳川綱吉になっていた。