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第739話 永井直勝の改姓の因縁

序文・祖先の因果が

                               堀口尚次

 

 永井直勝(なおかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、旗本、大名。上野小幡藩主、常陸笠間藩主、下総古河藩初代藩主。永井宗家初代。

 永禄6年、三河国の武将・長田重元(おさだしげもと)の次男として三河国碧海郡大浜豪〈現在の愛知県碧南市音羽町〉に生まれる。

 天正4年、はじめ徳川家康の嫡男・信康に仕えたが、天正7年に信康が自刃すると、徳川氏を去って隠棲した。天正8年、家康に召し出されて再び家臣となる。天正12年の小牧・長久手の戦いでは池田恒興を討ち取る大功を挙げたため、家康や織田信雄らから賞賛された。文禄3年、恒興の次男・池田輝政が家康の次女の督姫を娶(めと)った際、輝政の求めに応じて、長久手の戦いで恒興を討ち取った際の事を語った。このとき、直勝の知行が5000石と知った輝政は、父を討ち取った功績の価値が5000石しかないのかと嘆息したという。

 文禄5年2月7日、豊臣秀吉から豊臣姓を下賜されている。慶長5年の関ケ原の戦いの後に近江国に2000石を加増され、7000石を領する。

 大坂の陣にも参戦して戦功を上げ、元和2年に上野小幡藩1万7000石に加増。翌元和3年には常陸笠間藩3万2000石を与えられ、後に2万石を加増される。元和8年、下総古河において7万2000石を与えられた。

 因みに直勝生誕の地である三河大浜郷は、直勝の父・長田重元の屋敷〈大濱羽城〉があった場所といわれているが、長田から永井の改姓について、長田氏は野間大坊源義朝を殺害した長田忠致(ただむね)の兄・親致(ちかむね)の系統であり、直勝の代に徳川家康から主君を弑(しい)した忠致に繋がるとして、大江姓永井氏に改姓された

 子孫に作家の永井荷風(かふう)や三島由紀夫狂言師野村萬斎などがいる。すなわち、直勝と大河内秀綱次女の由利姫との間に生まれた正直〈鳴尾永井家〉が荷風の12代前、萬斎の14代前の祖先であり、直勝と阿部正勝の娘との間に生まれたの尚政が三島の11代前の祖先にあたる。

 愛知県碧南市音羽町にある宝珠寺には、永井直勝生誕の地の碑が建てられている。