ホリショウのあれこれ文筆庫

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第719話 忠義の士・夏目広次

序文・家康の身代わり

                               堀口尚次

 

 夏目吉信(よしのぶ)は、戦国時代の武将。松平氏〈徳川氏〉の譜代家臣。通称は次郎左衛門。一次史料上で確認できる実名は広次である。

 永禄4年、三河長沢城攻めで軍功を上げ、永禄5年に板倉重定を攻めた三州八幡合戦〈八幡村城〉の際には、今川氏の攻撃で家康〈元康〉方が総崩れになった際、殿(しんがり)を務めて、国府までの間、6度踏み止まり奮戦したという。後に家康から軍労を賞され備前長光作の脇差を賜った。

 ところが、永禄6年秋、岡崎を中心に寺が「守護不入」特権を侵害されたために家康権力の対抗して武力蜂起をしたことが原因による三河一向一揆が起こると家康から寝返り、一揆側に加担し、大津半右衛門・乙部八兵衛・久留正勝ら門徒と共に野場城〈六栗城との説も〉に籠って松平家康〈後の徳川家康〉に叛いて敵対した。しかし乙部八兵衛は砦は長く持たないと判断し久留正勝等と密かに計り伊忠との内通によって砦が陥落すると、攻め手の松平伊忠に捕らわれたが、乙部の助命嘆願によって許され、伊忠の附属となった。後に忠義の士であるとして、伊忠が家康に嘆願して正式に帰参を許された。同年7月3日、三河遠江郡代となる。

 元亀3年の三方ヶ原の戦いの時、吉信は浜松城留守居だったが、櫓に登って戦場を遠望して味方が敗色濃厚なのを知って家康の救援に向かう。退却を進言するが、止めるのも聞かず家康が決死の突撃をしようとするので、説得を諦めて、強引に乗馬の向きを変えて、刀のみねで打って奔らせた。家康を逃がすために、自らを家康と称し、十文字の槍を持ち、25騎を率いて武田勢の追手に突入して奮戦。身代わりとなって戦死した。享年55。後に、家康は本宿の法蔵寺に三方ヶ原戦死者の慰霊碑を建てさせ、吉信の忠烈に感じて「信誉徹忠居士」と刻んだ吉信の墓を建てた。

 明治の文豪夏目漱石は夏目氏の後裔であると称しており、門人小宮豊隆は夏目家に伝わる系図を見た上で、吉信の先祖である夏目左近将監国平の子孫であるとしている。この系統は武田氏に仕えた後に岩城城主太田氏房に仕え、その後岩城藩高力氏に仕えたが帰農したという。ただし、旗本夏目氏や高力氏の系図と見て世代数が明らかに少なすぎるなどの疑問点を挙げている研究者もある。