ホリショウのあれこれ文筆庫

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第580話 於大の方と椎の木屋敷

序文・政略結婚

                               堀口尚次

 

 水野氏は、戦国時代には三河国刈谷城主であり、徳川家康の母・於大の方〈伝通院〉の実家にあたり、桶狭間の戦い後に家康に仕えた。江戸時代には譜代大名の一つだった。しばしば幕府の老中を出し特に天保の改革水野忠邦が著名。

 水野忠政は、戦国時代の武将、戦国大名。水野家当主。緒川城〈現・知多郡東浦町〉および刈谷城〈現・愛知県刈谷市〉の城主。徳川家康の生母・於大の方伝通院は娘で、家康の外祖父にあたる。はじめ尾張国の緒川城を中心として知多半島北部をその支配下においたが、天文2年、三河国刈谷に新しく刈谷城を築いた。織田信秀〈信長の父〉の西三河進攻に協力しつつ、他方では岡崎城松平広忠〈家康の父〉、形原(かたはら)城主〈現・愛知県蒲郡市松平家広などに娘を嫁がせて、領土の保全を図った。

 於代の方の父・忠政は緒川からほど近い三河国にも所領を持っており、当時三河で勢力を振るっていた松平清康〈家康の祖父〉の求めに応じて於富の方〈忠政の正室〉を離縁して清康に嫁がせ、松平氏とさらに友好関係を深めるため、天文10年に於大を清康の跡を継いだ松平広忠に嫁がせた。天文11年、於大は広忠の長男・竹千代後の家康岡崎城で出産した

 忠政の死後、家督を継いだ於大の兄・信元が、天文13年に松平氏の主君・今川氏と絶縁して織田氏に従ったため、於大は今川氏との関係を慮った広忠により離縁された。実家・水野氏の三河国刈谷城に返され、「椎(しい)の木屋敷」で暮らしたとされている。

 「椎の木屋敷」は、江戸時代には禁足地扱いされ、屋敷の出入口に鍵が掛けられ人足により手入れされた。庶民は立ち入ることができなかった。かつて文字通りの屋敷建築物も存在し、敷地の中央部には数基の五輪塔があったとされる。於大は天文17年に阿久比の久松長家俊勝と再婚し、椎の木屋敷を離れて坂部城〈現・知多郡阿久比町〉に移った。

 「椎の木屋敷跡」は、平成9年に刈谷市指定文化財に指定した後、平成11年には市民に開放する史跡として整備した。於大の座像や東屋のある庭園であり、政略結婚の末に捨てられた恨みからか、あるいは置いていった我が子・家康を思ってか於大の目線は岡崎の方角に向けられている。私は過日ここを訪れ、於大の方を偲んだ。