序文・尾張徳川家の合印
堀口尚次
○に八の字を書いて。都市のシンボルマークとしては一風変わった意匠だが、これが名古屋市の市章だ。制定されたのは明治40年10月のこと。明治40年代には神戸市や横浜市でも市章が定められており、当時は市を表象するマークを制定しようという動きが各地にあったようだ。折しも名古屋は、名古屋港の開港、市制20周年を間近に控え、市勢の発展ぶりを内外に示そうという気運が高まっていた。シンボルマークの制定にはうってつけの時期であったわけだ。制定に当たっては、懸賞募集で各方面に意匠を求めた。しかし、適当な図案がなく、議論百出(ひゃくしゅつ)の末、最終的には尾張徳川家の合印(あいじるし)として用いられていたマークを採用することになったといわれている。制定の経緯は定かではないが、「丸は無限に広がる力、また八は末広がりで発展を示す」というお目出度いマークであり、名古屋の歴史を大切にしながら、新たな発展を期そうという思いがあったようだ。合印とは、一般的には、他者と区別するための印。丸八印は尾張藩の略章〈正式の家紋は葵巴紋〉というべきもので、小使提灯、小者用の紋所、小荷駄(こにだ)などに使用されていた。また元治元年、14代藩主・徳川慶勝が上京した際には、藩令で随伴の者に丸八印の木札を腰に下げることが命じられ、同時に家臣の提灯に同様の紋を付けることも定められた。
八マークが尾張徳川家に由来することは間違いない。それでは、なぜ尾張藩が用いるようになったか。いくつかの説があるが、主なものは次のようなもの。①尾張八郡〈尾張藩政下に置かれていた愛知・春日井・葉栗・丹羽・中島・海東・海西・知多の八郡〉の八に由来する。
②尾張の片仮名表記である「オハリ」の「ハ」に由来する。尾張藩士・安部八兵衛が常用していた提灯の八の字に由来する。
③清和源氏の流れを汲む尾張藩が、先祖・八幡太郎義家の定紋である「向い鳩」を型どり、丸に八の字の紋を作ったことに由来する。
残念ながら、いずれも牽強付会(けんきょうふかい)の難をまぬがれんが、尾張の歴史や逸話を踏まえた興味深い説といえよう。