序文・東照大権現
堀口尚次
徳川家康の影武者説は、江戸幕府を開いた徳川家康の生涯は通説で考えられているものと異なり、人生のいずれかの段階で別人と入れ替わったという仮説〈別人説〉。入れ替わった段階をいつと捉えるかによって説の内容は異なるが、いずれの説も史料批判の誤りが多いため、フィクションとしてはともかく、アカデミズムにおいては否定的見解が強い。明治時代の地方官であった村岡素一郎が唱えた桶狭間の戦い直後に入れ替わったという説が有力。
徳川家康は江戸時代を通じて神君とされていたため、その出自を疑う者はいなかった。明治35年、徳富蘇峰が経営する民友社から、地方官吏であった村岡素一郎が『史疑 徳川家康事蹟』という書籍を出版して家康の影武者説を唱えた。
村岡素一郎によれば、「松平広忠の嫡男で、幼名は竹千代。元服して松平二郎三郎元信と名乗った人物は、正真正銘の松平〈徳川氏〉の当主である。桶狭間の戦いで今川軍の先鋒として活躍したのも、この竹千代〈当時は元康〉である。しかし元康は桶狭間の戦いで今川義元が死去した後に独立したが、数年後に不慮の死を遂げた。そして、その後に現れる家康は、世良田二郎三郎元信という、全くの別人が成り代わったものである」という説を村岡が着想したのは、林羅山の著書『駿府政事録』の慶長17年の記述である。『駿府政事録』にはこうある。慶長十七年八月十九日、家康が雑談の席で「私は子供の頃、又右衛門ナニガシというものに銭五貫文で売り飛ばされ、九歳から十八歳、十九歳まで駿府に居たのだ」と語ったというのだ。家康公は戦国時代よくあった誘拐にあい、売り飛ばされていたのである。家臣達はみな、この話を聞いていたのだ。
当時、松平広忠は今川義元の庇護を受けるため、息子の竹千代〈家康〉を駿府に人質として送ろうとしていた。しかし、広忠の継室真喜姫〈田原御前〉の父である田原城主の戸田康光が今川家と松平家を裏切り、竹千代は織田信秀のもとへ売られた。後に織田信長の庶兄である織田信広が今川軍に敗れて捕らえられたため〈安城合戦〉、その信広と交換されて駿府に送られた。その様子を家康が語ったものとされている。
村岡は戸田家が竹千代を売ったことを否定しているという。しかし、康光を始めとする今川家を裏切った戸田一族は今川家に滅ぼされており、否定したという戸田家の人物は不明である。
