ホリショウのあれこれ文筆庫

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第575話 厭離穢土 欣求浄土

序文・松平家菩提寺

                               堀口尚次

 

 「厭離穢土(おんりえど) 欣求浄土(ごんぐじょうど)」の言葉は戦国時代、徳川家康の馬印〈戦場や行軍で自分の位置を示したり、味方の士気を鼓舞するため、軍旗のほかに用いた、木や竹などの柄を付けた装飾物〉に用いられたことで知られる。

 永禄3年5月19日昼頃、今川義元桶狭間の戦いで戦死。織田方の武将の水野信元は、甥の松平元康〈徳川家康〉のもとへ、浅井道忠を使者として遣わした。同日夕方、道忠は、元康が守っていた大高城に到着し、今川義元戦死の報を伝えた。織田勢が来襲する前に退却するようとの勧めに対し、元康はいったん物見を出して桶狭間敗戦を確認した。同日夜半に退城。岡崎城内には今川の残兵がいたため、これを避けて翌20日菩提寺大樹寺に入った。ここまでは、各文献に記されているものであるが、家康の馬印となった由来については2説ある

 ひとつ目の説は大樹寺で代々言い伝えられているもの。言い伝えによれば、元康は敵の追撃をかわしながら、大樹寺に到着した。前途を悲観した元康は、大樹寺松平家の墓前で自害を試みるが、その時13代住職の登誉天室(とうよてんしつ)が「厭離穢土 欣求浄土」と説き、切腹を思いとどまらせたと言われる。この言葉は「戦国の世は、誰もが自己の欲望のために戦いをしているから、国土が穢れきっている。その穢土を厭(いと)い離れ、永遠に平和な浄土をねがい求めるならば、必ず仏の加護を得て事を成す」という意味を指す。

 もうひとつの説は、江戸時代の故事や旧例を紹介した『柳営秘艦(りゅうえいひかん)』によるもの。同書によれば、家康が三河国を治めていた永禄5年から同7年にかけて、一向一揆が苛烈を極めた際に大樹寺の住職だった登誉は家康に味方し、家康から御旗を賜ると自筆で「厭離穢土 欣求浄土」と記して、門徒たちはその御旗を先頭に一向衆に攻め入り勝利を得たとされる。御旗の「厭離穢土 欣求浄土」は「生を軽んじ、死を幸いにする」という身構えを示したもので、これは一向一揆側が自分たちの鎧に「進是極楽退是無間地獄〈前進すれば極楽、退却すれば無間地獄〉」と記したことを聞いて、住職がこの文言を書いて死を奨め、それ以来この旗は吉例とされ、御当家の御宝蔵にある、とされている。

 私は過日岡崎の大樹寺を訪ね、厭離穢土 欣求浄土を目の当たりにしてきた。