ホリショウのあれこれ文筆庫

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第882話 新田開発と津金文左衛門

序文・瀬戸物の磁器開発にも尽力

                               堀口尚次

 

 津金胤臣(つがねたねおみ)は、江戸時代中期の武士。一般的には津金文左衛門の名で知られる。

 享保12年、尾張国名古屋〈現在の愛知県名古屋市東区平田町〉で、尾張藩士・津金胤忠の長子として生まれる。幼名は薪之丞。津金氏は甲斐武田の家臣であったが武田勝頼が滅びたのちに尾張へ移り住んだもので、尾張藩に仕えて胤臣で7代目であった。寛保2年、父・胤忠が急逝したため16歳で家督を継ぎ、馬廻や藩主・徳川宗睦(むねちか)の世子である徳川治休(はるよし)の小姓を経て守役を務めた。漢学や和歌を学ぶなど学問に親しむとともに武術にも秀で、また経済・土木など実学にも長けた人物であったという。この後、宝暦3年36歳にして金方納戸役(きんかたなんどやく)となり、その後も明和元年に勘定奉行、安永6年に先手物頭(さきてものがしら)と要職を歴任。寛政元年には62歳の高齢ながら錦織奉行となった。

 寛政3年には熱田奉行兼船奉行に任ぜられ、寛政12年から熱田前新田干拓事業を指揮。また、晩年には海西郡飛島新田〈現在の海部郡飛島村干拓に携わったが、これの完成した享和元年12月19日に病没。享年76。

 胤臣は熱田前新田の開拓民としてこの地に居た加藤吉左衛門景高・民吉親子と出会い、これが後に瀬戸窯磁器をもたらすきっかけとなった

 当時の瀬戸では陶器だけが生産されていたが、肥前磁器〈伊万里焼〉など磁器の台頭によって苦境に喘ぎ、「窯を継ぐのは長子だけ」「一戸にろくろ1つのみ」など窯数の制限が行なわれて、吉左衛門も長男に窯を譲ったのち次男である民吉ら家族とともに熱田に移り住んでいた。彼らが瀬戸から来た陶工であることを知った胤臣は、かねて入手していた清国の『陶説』に書かれていた染付磁器〈南京石焼〉の作り方について指導し、知多郡加家から土を取り寄せるとともに、熱田新田の古い堤防を利用して窯を築かせるなどしてこれを焼かせ、続いて藩と瀬戸の陶工らに働きかけて、瀬戸で次男以下にこの「新製焼」の窯を開くことを認めさせている。

 胤臣の業績を顕彰するため、昭和28年に飛島村の元松神社銅像が建てられた。また名古屋市港区辰巳町に、胤臣の「頌徳碑(しょうとくひ)」と、胤臣の援助により新しい製磁法を確立した加藤民吉と父・吉左衛門の功績をたたえた尾張磁器発祥之地碑」がある。