ホリショウのあれこれ文筆庫

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第507話 新川開削

序文・江戸時代の偉業

                               堀口尚次

 

 新川は、愛知県名古屋市とその周辺を流れる庄内川水系の河川。江戸時代に開削された人工河川で、それまで庄内川に流れ込んでいた複数の川の水を名古屋西部からそらし、増水時には、新川洗堰を通じて庄内川の水を迂回させる目的で作られた。江戸時代のこの地帯は、庄内川に一気に中小河川の水が流れ込み洪水の常習地で、名古屋の城下町はたびたび被害を受けた。これらの中小河川の水が庄内川に集まりすぎるのを防ぐために、人工河川として掘削されたのが新川である。幕府から援助を受け、尾張藩と地元農民が協力して完成した河川である。

 1700年代の後半、庄内川右岸で生活する住民は、「清須14ヶ村総庄屋」寺野村の丹羽義道を中心に尾張藩に対して庄内川の治水を求める嘆願運動を展開庄内川の分水工事を実現して、治水問題を解決しようと藩主に直談判する者が現れはじめた。当時の尾張藩勘定奉行である水野千之右衛門は当時の藩主徳川宗睦(むねちか)に、建白書を提出し具体的な方法と予算を示し、治水工事を嘆願した。しかし当時藩の財政が窮乏しており、藩主は工事の実行に反対した。しかし、安永8年(1779年)の庄内川の大洪水に直面し、名古屋の町内にも浸水被害が起き、徳川宗睦は、ついに工事の決断をし、藩主近侍の人見弥右衛門(ひとみやえもん)と水野千之右衛門にその担当を命じた

 しかし、水害の復興などで費用がかさみ、藩の財政状況はますます悪化する一途であった。治水工事には藩の1年分の収入でも間に合わないが、工事を途中で中止させることのないよう莫大な費用をわざと減額した予算を提出し、天明4年(1784)尾張藩と幕府の承認を得て着工が認められた。

工事は、味鋺村(現在・名古屋市北区)内の庄内川右岸堤を一部低くし、そこに洗堰をつくって庄内川の水を分流し、合瀬川や大山川、五条川などを合流させて伊勢湾まで約20kmにおよぶ川を掘ろうというもので、洗堰から伊勢湾に至るまで、200ヶ所以上の地点に分け、同時着工、突貫工事という方法で掘削した。なお、人見、水野両名は工事途中で予算の過小申告が発覚し、降格などの処分を受けたが、尾張藩は、工事が完成するまで続行させた。最終的には、総工費40万両以上を費やし、天明7年に竣工した。

 尚、余談ではあるが尾張藩徳川宗睦に治水工事責任者に任命された藩主近侍の人見弥右衛門は、筆者の地元愛知県東海市の郷土の偉人・儒学者の細井平洲と関係がある。

人見は、尾張名古屋藩士の叔父人見貞安の養子となり、藩主徳川宗睦の長男治休(はるよし)の侍講(じこう)〈教育者〉をつとめる。細井平洲とともに藩校明倫堂の学規を定めている。その後勘定奉行を兼ねると、宗睦の命により農業改革を進め、代官所 を各地に設置、天明5年に豊作となると藩主から黄金を下賜された。このとき普請奉行水野千之右衛門と協力して決壊した安達、庄内の両川を疏鑿(さそく)〈掘りうがって、川を通すこと〉、分流し治水工事を行った。職を辞して引退した後も月俸を受けている。

 私は過日、陣屋跡を訪れ説明看板から、地元の庄屋・丹羽義道が閉居処分を受けながら、住民〈農民〉の水害回避のために尾張藩に訴え続けた事実も知った。役人だけではなく、隠れた犠牲者がいることにも触れ、治水事業の偉業が偲ばれた。

 しかしながら、御承知の通り平成12年の「東海豪雨」により新川は決壊し、流域住民に多大な被害をもたらしている。私はこの時、名古屋市昭和区に勤務しており大変な豪雨だったことを鮮明に覚えている。中川区のグループ会社が浸水する恐れがあるとの連絡を受け、応援に駆けつける準備をしたが、おりからの豪雨で断念した。車での帰宅となったが国道が川のように浸水して恐ろしかった。

 愛知県の尾張地区は濃尾平野にあたり、木曽三川木曽川長良川揖斐川〉をはじめ、数々の河川が肥沃な土地を作り、発展してきた半面、水害との戦いの歴史だった。江戸時代には「宝暦治水」で名高い、幕府の命令で薩摩藩による木曽三川の治水工事がおこなわれて多数の犠牲者が出ている。そして今回調査した「新川開削」においても尾張藩が財政難の中、治水対策の重要性に鑑みて敢行している。

 江戸時代の人々の農作に欠かせない河川の水、そして現代の我々にとっても飲料水は元より、生活水・農業用水・工業用水などに欠かせないのが河川の水となっている。河川との戦いは今後も続いていくだろう。先人たちが築いた苦難の道の上に立つ現代人は、更なる知恵を持って対処していかざるを得ない。