ホリショウのあれこれ文筆庫

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第980話 黒野城主・加藤貞泰の転付の原因

序文・転勤族

                               堀口尚次

 

 加藤貞泰(さだやす)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。美濃国黒野藩主、伯耆国米子藩主、伊予国大洲藩初代藩主。

 慶長5年の関ケ原の戦いにおいては、当初石田三成に従い、その要請を受けて尾張犬山城を守備したが、弟光尚を江戸の徳川家康へ人質として送り家康に忠誠を誓い、貞泰犬山城加勢衆を家康に味方するように働きかけ籠城する。 

 この間に岐阜城が落城。東軍の指揮下で美濃大垣城にて西軍と対峙した後、関ヶ原では黒田長政竹中重門とともに丸山烽火場附近に布陣し本戦では島津義弘率いる島津軍と戦い、本戦後は稲葉貞通と共に西軍のが守る水口岡山城攻略で功を挙げ、元は豊臣氏の家臣であった貞泰は、文禄4年に美濃黒野4万石を与えられた。徳川家康より所領を安堵され黒野藩が成立した。黒野在城中、加納城彦根城の普請に加わった。

 貞泰黒野城と城下町の建設に努めながら、長良川流域の河川洪水を防ぐため、堤を築き、領民が貞泰の官職名・左衛門尉(さえもんのじょう)の尉から「尉殿堤(じょうどのつつみ)」と名付け後世まで慕われた

 慶長15年1月には黒野の町屋敷に楽市の免許状を出し土地の年貢と諸役を向こう5年間免除し自由に商売が出来るようにしたが、僅か半年間の実施で国替えになる。貞泰黒野城の築城や城下町の建設、楽市制度の導入や家老制度の整備、黒野別院の建設などを行なって、藩政の基礎を固めた。しかし慶長15年7月15日に伯耆国米子藩6万石加増移封され、黒野藩は廃藩となった

 この転封劇には貞泰黒野藩主当時、長良川右岸の堤防整備を行った結果、長良川左岸の加納城が浸水したと、加納藩・奥平信昌正室亀姫が、父の徳川家康讒言(ざんげん)〈事実を曲げたりありもしない事柄を作り上げたりしてその人のことを目上の人に悪く言うことしたからという説がある

 慶長19年からの大坂の陣では徳川方として参戦して戦功を立てた。元和3年に伊予大洲藩に同じ6万石移封となる。

 【私見】戦国時代とはいえ、今でいえば岐阜→島根→愛媛と転勤の連続だ。また社長の娘〈徳川家康の娘・亀姫〉の告げ口による仕打ちもひどいものであり、公私混同も甚だしい。せめてもの救いは、現在の黒野城跡地岐阜市史跡に指定されており、公園として整備されていることだろうか。