ホリショウのあれこれ文筆庫

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第981話 小型ボート型特殊兵器「震洋」

序文・ここにもあった特攻隊

                               堀口尚次

 

 震洋(しんよう)は、太平洋戦争で日本海軍が開発・使用した特殊兵器〈小型特攻ボート〉。構造が簡単で、大量生産された。

 震洋は、日本海軍が太平洋戦争中盤以降に開発・実戦投入した特攻兵器。

小型のベニヤ板モーターボートの船内艇首部に炸薬(さくやく)を搭載し、搭乗員が乗り込んで操縦して目標艦艇に体当たり攻撃を敢行する

 「震洋」の名称は、特攻部長・大森仙太郎少将が明治維新の船名を取って命名したもの。秘匿名称は特攻兵器として四番目であるため「㊃(マツヨン)金物(かなもの)」、㊃艇。震洋は、昭和19年5月27日に試作1号艇が完成し、8月28日に兵器として採用された。10月下旬の捷(しょう)一号作戦〈レイテ沖海戦〉に投入された神風特別攻撃隊より半年以上前に、本特攻兵器の開発は完了していたことを意味する。日本軍は四式肉薄攻撃艇〈マルレ〉とマル四〈震洋〉をあわせ、マル八と呼称した震洋の2人乗りのタイプには機銃1~2丁が搭載され、指揮官艇として使用された。戦争末期は敵艦船の銃座(じゅうざ)増加に伴い、これを破壊し到達するために2発のロケット弾が搭載された。

 昭和18年黒島亀人(かめと)・連合艦隊主席参謀は、軍令部に対しモーターボートに爆薬を装備して敵艦に激突させる方法はないかと語っていた。この後の昭和19年4月4日、黒島亀人軍令部2部部長は「作戦上急速実現を要望する兵力」と題した提案の中で、装甲爆破艇〈震洋〉の開発を主張した。この発案は軍令部内で検討された後、海軍省へ各種緊急実験が要望された。艦政本部において○四兵器として他の特攻兵器とともに担当主務部を定め、特殊緊急実験が行われた。

 搭乗員は、他の特種兵器から転出となった搭乗員のほか、学徒兵海軍飛行予科練習生出身者を中心とした。彼らは機体が無いために余剰となった航空隊員だった。震洋の戦死者は2,500人以上である

 現存する「震洋」は、オーストラリアのシドニーの戦争記念博物館に1隻のみ保存されている。また、愛知県知多郡南知多町の片名に、特攻艇「震洋」格納庫壕が現存する。

私見】余剰となった人員を割り当てるなど軍令部・参謀本部の計画性に問題があったとしか思えない。神風特攻隊員と同様に心中を慮(おもんばか)らずにはおれない。