ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第982話 石田三成の旗印

序文・三成の矜持

                               堀口尚次

 

 石田三成は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣家家臣。豊臣政権の奉行として活動し、五奉行のうちの一人となる。豊臣秀吉の死後、徳川家康打倒のために決起して、毛利輝元ら諸大名とともに西軍を組織したが、関ケ原の戦いにおいて敗れ、京都六条ヶ原で処刑された。

 定紋は定かではなく、「大一大万大吉」、または「大吉大一大万」が、足軽たちに貸し出していた甲冑(かっちゅう)の胴や石田三成画像の裃(かみしも)に描かれている。その意味は「一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は幸福になれる」というもの。石田氏としては九曜紋や桔梗紋の使用がある。「大一大万大吉」紋は文字の配置や書体は不明であるが、鎌倉時代の武将、石田次郎為久〈源義仲を射落とした武将〉も使用しており、ほかには備後山内首藤氏も使用している。三成の家紋として九曜紋が取り上げられることもある。

 三成は多くのエピソードを持つ武将であり、人物像形成に大きな影響を与えている。ただし、他の戦国武将同様それら「逸話」の多くは本人死後の江戸時代に記された書物〈二次史料〉にのみ載せられたものがほとんどであり、安易に歴史的事実として鵜呑みにはできない。特に出世のため他人を陥れる器の小さい野心家として描かれた逸話が多いが、三成が江戸幕府の治世下において、幕府を築いた神君家康と多くが加増された東軍諸大名に敵対した仇役という立場にあった点は注意を要する。

 家康は関ヶ原の戦いで敗れて捕縛された三成に面会した際、「このように戦に敗れることは、古今よくあることで少しも恥ではない」といった。三成が「天運によってこのようになったのだ。早々に首を刎ねよ」と応えると家康も「三成はさすがに大将の器量である。平宗盛などとは大いに異なる」と嘆じた。また家康は処刑前の三成、小西行長安国寺恵瓊の3人が破れた衣服ままであることを聞き、「将たるものに恥辱を与える行為は自分の恥である。」として小袖を送り届けた。三成は小袖を見て「誰からのものか」と聞き、「江戸の上様〈家康〉からだ」と言われると、「それは誰だ」と聞き返した。「徳川殿だ」と言われると「なぜ徳川殿を尊ぶ必要があるのか」と礼もいわずに嘲笑った。