序文・千利休の後継者
堀口尚次
古田重然(しげなり)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名、茶人、芸術家。古田織部(おりべ)の通称で知られる。南山城・東大和1万石の大名。官位は従五位下・織部助〈官職名〉。豊臣秀吉・徳川家康の茶頭、徳川秀忠の茶の湯指南役。茶道織部流の祖。江戸幕府〈柳営(りゅうえい)=将軍家〉の御茶吟味役。柳営茶道の祖。利休七哲のひとりで、千利休の後継者として茶の湯を大成し、茶器・会席具製作・建築・作庭などにわたって「織部好み」と呼ばれる一大流行をもたらした。また、武将としても大坂夏の陣で徳川方につき武功を挙げたが、豊臣側と内通しているとの疑いをかけられ、自刃した。
一般的には茶人・古田織部として知られる。「織部」の名は、壮年期に従五位下「織部助」の官途に叙任されたことに由来している。「織部正」は自称と考えられている。諱・重然。初名は景安。また手紙には古織部、古田織部、古田織部助、古田宗屋と自署した。
美濃国の国人領主であった古田重安の弟・古田勘阿弥の子として美濃国に生まれ、後に伯父・重安の養子となったという。家紋は三引両。『古田家譜』に勘阿弥は「茶道の達人也」と記されていることから、織部も父・勘阿弥の薫陶を受け武将としての経歴を歩みつつ、茶人としての強い嗜好性を持って成長したと推測される。
大坂夏の陣の慶長20年3月30日、織部の茶堂である木村宗喜や薩摩島津氏の連歌師が豊臣氏に内通して京への放火を企んだ罪で京都所司代・板倉勝重に捕らえられた。「豊臣恩顧」の大名・織部も冬の陣の頃から豊臣氏と内通しており、徳川方の軍議の秘密を大坂城内へ矢文で知らせたなどの嫌疑をかけられ、大坂落城後の6月11日に切腹を命じられた。織部はこれに際し、一言も釈明しなかったといわれる。享年73。織部は大徳寺玉林院に葬られたが、現在の墓地は三玄院の寺域となっている。12月27日には嗣子の重広も江戸の本誓寺で斬首され、古田家は断絶した。
【備考】岐阜県本巣(もとす)市に「道の駅おりべの里もとす」「織部展示館」「樽見鉄道・織部駅」がある。本巣市のホームページでは、本巣市を古田織部の生誕の地としている。近くには織部の父で山口城主・古田重定〈総兵衛〉の菩提寺・祐國寺がある。