ホリショウのあれこれ文筆庫

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第906話 千姫の血筋

序文・織田、豊臣、徳川との繋がり

                               堀口尚次

 

 千姫は、安土桃山時代から江戸時代の女性。豊臣秀頼本多忠刻(ただとき)の正室父は徳川秀忠、母は浅井長政の三女である浅井江(ごう)〈太閤豊臣秀吉の養女・達子〉。号は天樹院

 慶長2年4月11日、秀忠と江の長女として、山城国伏見城内の徳川屋敷で産まれる。慶長8年に7歳で秀頼と結婚し、従者ともに大坂城に入る。慶長20年の大坂夏の陣では、祖父・徳川家康の命により落城する大坂城から救出される。その後、秀頼と側室の間の娘・天秀尼が処刑されそうになった時に、千姫は彼女を自らの養女にして命を助ける〈秀頼と淀殿に対する助命嘆願は聞き届けられなかった〉。

 元和2年、桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻と結婚した。この時、和津野藩主・坂崎直盛が輿入れの行列を襲って千姫を強奪する計画を立てていることが発覚し、直盛は家臣により殺害され、それを直盛が自害したように見せかけたが、坂崎家は改易処分となった。

 従兄にあたる初めの夫・豊臣秀頼とは夫婦仲睦まじく、千姫が16歳のとき、秀頼が女性の黒髪を揃える儀式「鬢削(びんそぎ)」を千姫にしていたのを侍女が見ている。 父方の聡明さと母方の美貌を受け継いだ、美しい姫君であったという。2人目の夫・本多忠刻〈母・熊姫は徳川家康織田信長の孫で、千姫の従姉である〉も精悍(せいかん)さが評判の凛々しい武士であったといわれ、美男美女夫婦で仲睦まじかった。祖父・家康や父・秀忠から可愛がられ、また、弟・家光とも姉弟仲は良好だったらしい。歴代の幕府もその経歴から処遇に関しては細心の注意を払った。

 徳川家光の長年に渡る信頼ぶりから、安定した人格の人物だったことが窺(うかが)い知れる。実際、落城や夫の死、明暦の大火など人生の節目で地に足がついた選択をし、結果70歳まで長生きして寿命を全うした部分に、彼女の思慮深さが垣間見える。目の前の事件に惑わされることがない視野の広さは、祖父・徳川家康、父・秀忠、弟・家光、甥・家綱といった歴代将軍に一目置かれた

私見織田氏と徳川氏の血筋を引き、豊臣氏とも姻戚関係にあり、織田信長徳川家康豊臣秀吉三者と深い因縁で繋がる千姫は、徳川幕府徳川将軍家〉にとって血統ブランドの象徴であったのかもしれない。封建社会に翻弄(ほんろう)された一生であろう。