ホリショウのあれこれ文筆庫

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第834話 青い目のサムライ

序文・旗本になったアダムズ

                               堀口尚次

 

 ウィリアム・アダムズは、サムライの称号を得た最初の外国人だった。江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイングランド人の航海士、水先案内人、貿易家。日本名は三浦按針(あんじん)

 関ケ原の戦いの約半年前の慶長5年3月16日、リーフデ号は豊後国臼杵の黒島に漂着した。慶長5年、家康は初めて彼らを引見する。しばらく乗組員たちを投獄したものの、執拗に処刑を要求する宣教師らを黙殺した家康は、幾度かにわたって引見を繰り返した後に釈放し、城地である江戸に招いた。

 やがて江戸湾に係留されていたリーフデ号が沈没すると、船大工としての経験を買われて、西洋式の帆船を建造することを要請される。永らく造船の現場から遠ざかっていたアダムスは、当初は固辞したものの受け入れざるを得なくなり、伊東に日本で初めての造船ドックを設けて80tの帆船を建造した。これが慶長9年に完成すると、気をよくした家康は大型船の建造を指示、慶長12年には120tの船舶を完成させる。

 この功績を賞した家康は、さらなる慰留の意味もあってアダムスを250石取りの旗本に取り立て、相模国逸見采地(さいち)〈領地〉も与えた。また、三浦按針〈"按針"の名は、彼の職業である水先案内人の意。姓の"三浦"は領地のある三浦郡にちなむ〉の名乗りを与えられ、異国人でありながら日本の武士として生きるという数奇な境遇を得たのである。のち、この所領は息子のジョゼフが相続し、三浦按針の名乗りもジョゼフに継承されている。

 家康に信頼された按針だったが、元和2年に家康が死去、跡を継いだ徳川秀忠をはじめ江戸幕府幕臣たちが海外貿易を幕府に一元化する目的で貿易を長崎と平戸の二港のみに制限すると、幾度も幕府に方針の転換を説いたが相手にされず、また秀忠との目通りも叶わず、按針の立場は不遇となった。以降の按針の役目は天文官〈天文学〉のみとなったが、幕府や次期将軍候補の徳川家光らに警戒された。按針は憂鬱な状態のまま、元和6年に平戸で死去した〈満55歳没〉。