ホリショウのあれこれ文筆庫

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第813話 本願寺分立

序文・家康の影響力

                               堀口尚次

 

 関ケ原の戦い後、かねてから家康によしみを通じていた教如(きょうにょ)〈真宗大谷派第12代門主〉は家康にさらに接近する。

 慶長7年、後陽成天皇の勅許を背景に家康から、「本願寺」のすぐ東の烏丸六条に四町四方の寺領が寄進され、教如は七条堀川の本願寺の一角にあった隠居所から堂舎を移しここを本拠とする

本願寺の分立」により本願寺教団も、准如(じゅんにょ)を十二世宗主とする本願寺教団」現在の浄土真宗本願寺派と、「教如を十二代宗主とする本願寺教団」現在の真宗大谷派とに分裂することになる

ただし教如の身分は死ぬまで公式には「本願寺隠居」であって必ずしも本願寺が分立したとは言い切れない。

 つまり形の上では七条堀川の本願寺の境内の一角に構えていた教如の隠居所〈本願寺境内の三分の一を占め阿弥陀堂や御影堂もあった〉を、六条烏丸に移させたにすぎない。東本願寺が正式に一派をなすのは次の宣如(せんにょ)のときからである。

 慶長8年、上野厩橋(うまやばし)〈群馬県前橋市〉の妙安寺より「親鸞上人木像」を迎え、本願寺東本願寺〉が開かれる。七条堀川の本願寺の東にあるため、後に「東本願寺」と通称されるようになり、准如が継承した七条堀川の本願寺は、「西本願寺」と通称されるようになる。

 一説によると、幕府は、准如関ヶ原の戦いに際して西軍側についたため准如に代えて教如を宗主に就けようとしたが、教如自身がこれを受けなかった。

この時、本多正信が、「本願寺は、現実には表方〈准如派〉と裏方〈教如派〉に分かれているのだから無理に一本化する必要はない」との意見を述べたため教如への継職を止め、別に寺地を与えることに決したという。

正信はさらに「天下ノ御為ニモヨロシカルベク存じ奉る」と続けているから、そこに幕府の狙い・つまり本願寺を分立させて教団の力を削ぐという意図が隠されていたことが読み取れる。 

 現在の真宗大谷派は、この時の経緯について、「教如法主を退隠してからも各地の門徒名号本尊や消息〈手紙〉の配布といった法主としての活動を続けており、本願寺教団は関ヶ原の戦いよりも前から准如法主とするグループと教如法主とするグループに分裂していた。徳川家康の寺領寄進は本願寺を分裂させるためというより、元々分裂状態にあった本願寺教団の現状を追認したに過ぎない」という見解を示している。

 東西本願寺の分立が後世に与えた影響については、『戦国時代には大名に匹敵する勢力を誇った本願寺は分裂し、弱体化を余儀なくされた』という見方も存在するが、前述の通り本願寺武装解除も顕(けん)如(にょ)・准如派と教如派の対立も信長・秀吉存命の頃から始まっており、また江戸時代に同一宗派内の本山と脇門跡という関係だった西本願寺興正寺が、寺格を巡って長らく対立して幕府の介入を招いたことを鑑みれば、教如派が平和的に公然と独立を果たしたことは、むしろ両本願寺の宗政を安定させた可能性も否定出来ない。

 現在、本願寺派西本願寺の末寺・門徒が、中国地方に特に多い〈いわゆる「安芸門徒」など〉のに対し、大谷派東本願寺では、北陸地方・東海地方に特に多い〈いわゆる「加賀門徒」「尾張門徒」「三河門徒」など〉。また、別院・教区の設置状況にも反映されている。このような傾向は、東西分派にいたる歴史的経緯による。

私見】一般的には、これら東西の本願寺を指して「浄土真宗」と総称するが、正しくは『本願寺派西本願寺側〉だけが浄土真宗』であり、『大谷派東本願寺側〉は真宗大谷派』なのだそうだ。親鸞聖人から機縁する浄土真宗であるが、親鸞自らが教団を設立した経緯はない。鎌倉時代から脈々と受け継がれた親鸞の血が、やがて浄土真宗と呼ばれる巨大宗教教団へと発展した。若き日の家康を苦しめた三河一向一揆や、信長と全面戦争になった長嶋一向一揆なども浄土真宗に辿り着く「一向宗」の反乱であった。「浄土真宗」とは江戸幕府が、いわば強制的に公式名称とさせたのだという。時の権力者〈江戸幕府将軍〉にとって巨大宗教教団の影響力は排除できず、分立させることで力を削いだという歴史的経緯は無視できない。