序文・信長や家康を苦しめた一揆
堀口尚次
一向一揆とは、戦国時代に浄土真宗本願寺教団〈一向宗〉の信徒たちが起こした、権力に対する抵抗運動の一揆の総称。
浄土真宗本願寺教団によって組織された、僧侶、武士、農民、商工業者などによって形成された宗教的自治、一揆の事である。本願寺派に属する寺院、道場を中心に、蓮如がいう「当流の安心は弥陀如来の本願にすがり一心に極楽往生を信ずることにある」という教義に従う土豪的武士や、自治的な惚村(そうそん)〈百姓の自治的・地縁的結合による共同組織〉に集結する農民が地域的に強固な信仰組織を形成していた。
長享2年、加賀守護富樫政親を滅ぼすことでその勢力を世に知らしめる。戦国時代末期、織田信長などによって鎮圧されるまでは各地に安定した豊かな町が築かれた。本拠地とされた摂津大阪や伊勢長島、三河矢作川流域などは湿地帯であったことから、高度な治水技術があったのではないかとの見方もされている。
反面、一向一揆を起こした寺院・僧侶らは世俗領域の領主・支配者に従わない政治的動きを示しており、織田信長が一向一揆に対して非戦闘員の虐殺を含めた殲滅戦を行った背景として、彼らが織田政権の宗教政策に対立する存在であるとともに、その活動が宗教者として失格であることを広く内外に示すためだったのではないか、とする見解も出されている。
三河一向一揆は、三方ヶ原の戦い、伊賀超えと並び、徳川家康の三大危機とされる。敵からも「犬のように忠実」と半ば揶揄される形で評価された三河家臣団の半数が、門徒方に与するなど、家康に宗教の恐ろしさをまざまざと見せつける事となった。この一揆は、三河における分国支配の確立を目指した家康に対して、その動きを阻もうと試みた一向宗勢力が、一族や家臣団を巻き込んで引き起こしたものである。その意味では、松平宗家〈徳川家〉が戦国大名として領国の一円支配を達成する際に、必ず乗り越えなければならない一つの関門であったと考えられる。
一揆の拡大によって武家政権の基盤を脅かされることを恐れた織田信長や細川晴元ら権力者との争いを展開するなど、戦国大名化して覇権を争ってもいる。
しかし、天正8年、信長との抗争に敗れて顕如が石山本願寺を退去した後は、本願寺の分裂騒動もあって一向一揆という名称は見られなくなる。