序文・浄土真宗の生き残りをかけた忠勤
堀口尚次
本願寺道路は、明治初年に東本願寺が石狩国の札幌と胆振(いぶり)国の尾去別(おさるべつ)とを山越えで結ぶ街道として建設した道路で、明治4年に開通した。建設は東本願寺による北海道開拓政策の中心事業の一つとなるもので、「本願寺街道」「有珠(うす)街道」ともよばれる。現在の国道230号の基礎となった。
後に本願寺道路が作られた経路は、従来からアイヌが通行しており、江戸時代には松浦武四郎(たけしろう)〈冒険家・北海道の名称考案者〉らがアイヌの案内で通っていた。明治2年に札幌に蝦夷地〈同年北海道と改称〉の本府を置くことが決まると、札幌と箱館〈同年函館と改称〉を連絡する道路が必要になった。このとき財政難の明治政府は、京都の東本願寺を動かして道路開削を出願させた。
東本願寺は、調査・計画を行い、明治3年から明治4年にかけて工事を実施し、尾去別〈現在の伊達市長和〉と平岸(ひらぎし)〈現在の札幌市豊平区平岸〉の間に約103 kmの道路を開削し、中山峠越えの道路を開通させた。工事の労働には僧侶のほか、士族と平民の移民、アイヌが従事した。
しかし、明治6年に苫小牧経由で室蘭に至る「札幌本道」が完成すると、山間を通る本願寺道路は敬遠されるようになり荒廃する。
明治19年から、北海道庁により改修工事が進められ、重要な街道として再生される。昭和25年に国道230号となる。
東本願寺は徳川家の恩顧(おんこ)があり、そのことにより、大政奉還後まもなくである慶応4年年始に行われた宮中会議において、同寺焼き討ちの案が出された。東本願寺側は、当時、第二十一代法主の嚴如(ごんにょ)〈大谷光勝(こうしょう)〉であり、その妻は皇族出身の嘉枝宮和子であった。和子の実兄である山(やま)階(しなの)宮(みや)晃(あきら)親王は、その宮中会議の経過を耳に入れ同寺の取り潰しの実現を懸念し、「叛意(はんい)がない」旨の誓書を寺側より朝廷に提出させることにより事なきを得た。だがその文章の中には「如何なる御用も拝承つかまつりたく」という一節があった。
一方、明治政府は北海道の開拓のために開拓使を設け、その本府を札幌に置くことを計画。当時すでに北海道の拠点として開けていた箱館から札幌へのルート開拓は急務とされていた。しかしながら、極端な財政難に陥っていた当時の政府には、北海道の道路を含めた開拓にまで手がけることは不可能で、薩長土肥等の勤皇雄藩も同様であった。そんな台所事情の新政府が苦し紛れに目をつけたのが、全国に宗門徒を抱えていた本願寺であった。
東本願寺は、周囲から白眼視される状況を打破するため、北海道の道路開削を申し出た。とはいっても実質的には、前述の誓書の文言をたてにした政府からの命令ともいうべき状況であった。また東本願寺が北海道開拓・新道開削に傾いた要因の一つに、廃仏毀釈が遺した仏教全体への逆風もある。道路開削は、世のため人のために働くことで「仏教は国益にかなう」と証明する機会でもあったのである。
工事にかけた期間は1年ほどとなっているが、冬季間は積雪のため休業せざるを得ないことを考えると、実質的に半年での作業という驚異的な突貫工事である。『札幌区史』『北海道通覧』などの記述には、このときの僧侶たちの苦闘ぶりが記されているが、土木の専門家でもない僧侶たちが百数十人いても作業進捗にどれだけの貢献ができたか、疑わしい面もある。とある有珠のアイヌ古老は、結局労働の土台となっていたのはアイヌであると指摘している。
開通からわずか2年後の明治6年に、現在の国道36号線の基礎となる札幌本道が開通したため、「本願寺街道」を利用する者は激減し、道は笹や草木の中に埋もれていった。
昭和52年12月、街道工事に当たってアイヌが酷使されたことを理由に、過激派が東本願寺本山を爆破するという事件が起きている。
私は過日、名古屋市中村区の同朋大学で開催されていた「本願寺道路展」を見に行った。そこでは貴重な資料が数点展示されており「本願寺道路」の事を詳しく勉強できた。私が伺った時に、担当の大学教授がいて、学生たちに説明している時だったので、片隅で拝聴させて頂いた。またその後の質問等にも丁寧に答えて下さり感謝の限りだった。