序文・西部劇名作映画「シェーン」
堀口尚次
ホームステッド法は、アメリカ合衆国で1862年に制定された法律であり、アメリカ西部の未開発の土地、1 区画 160 エーカー〈約 65 ヘクタール〉を無償で払い下げるものであり、自営農地法とも呼ばれる。この法律は1862年5月20日にエイブラハム・リンカーンが署名して発効した。最終的に1862年から1986年の間に160万件の土地払い下げが認められ、その面積は2億7,000万エーカー〈108万平方キロメートル〉で、アメリカの国土の10%に達した。
ホームステッド法は1841年の先買権法による公有地の払い下げ制度をさらに自由化する意図があった。アメリカの政治史ではヨーマン〈独立自営農〉という概念が伝統的に有力で、ホームステッド法でその数を増やそうという動きは1850年代から存在していた。しかし、自由農民を増やすことはプランテーション経済に頼る南部の奴隷制を脅かすものとして、南部が強く反対していた。ジョージ・ヘンリー・エバンスとホレス・グリーリーがホームステッド法の成立に重要な役割を果たした。土地の無償払い下げを求める活動は1844年に始まっており、何度も議会に提出されては廃案になっていたが、1861年に南部の諸州が合衆国から脱退し議会を去ったため、障害が無くなり法案は議会を通過した。
ホームステッド法は悪用されることが多かった。ホームステッド法で目指したものは農地として使われる土地の活用であった。しかし、ロッキー山脈より西側の不毛の土地では、640 エーカー〈256 ヘクタール〉でも収益をあげるのは困難だった〈少なくとも公共投資による灌漑計画が実施される以前では〉。このような地域では、本来の目的から逸れ、特に水のような資源を占有するためにホームステッド法が利用された。よくある手口としては、牛の放牧を行っているだけの大規模農家が、水源を含む土地で長年畑作をしているかのように偽って払い下げ申請を行うもので、ひとたび認可されれば、他の放牧者による水源の利用を拒否でき、隣接する農場を廃業に追い込むことができた。この当時、公有地から木材や石油を採取する時には政府により利用税が課されたので、これを回避するため当該土地を所有してしまうための方法としてもこういった手口が使われた。一方で、金や銀のような「ロケータブル鉱物」を含む土地は、1872年の鉱業法で管理され、また鉱物採取による税も課されなかったので、ホームステッド法を利用した土地の不正取得はあまり意味を持たなかった。