ホリショウのあれこれ文筆庫

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第558話 アパルトヘイト

序文・人種差別

                               堀口尚次

 

 アパルトヘイトは、アフリカーンス語で「分離、隔離」を意味する言葉で、南アフリカ共和国における白人と非白人の諸関係を規定する人種隔離政策のことを指す。

 かねてから数々の人種差別的立法のあった南アフリカにおいて1948年に法制として確立され、以後強力に推進されたが、1994年全人種による初の総選挙が行われ、この制度は撤廃された。

 アパルトヘイトという言葉は、1913年の「原住民土地法」に登場する。しかし、広く使われ始めたのは、国民党が居住地区条項を制度的に確立した1948年以降である。アパルトヘイトとは、南アフリカ連邦時代から続く人種差別思考の上になりたつ様々な差別立法を背景に1948年の純正国民党政権誕生によって確立された政策方針のことである。アパルトヘイト以前に、すでに「鉱山労働法」原住民土地法、産業調整法、背徳法などの差別的立法が成立していたが、国民党が政権を握って以降「集団地域法」「人口登録法」「投票者分離代表法」「バントゥー教育法」「共産主義鎮圧法」「テロリズム法」などが相次いで制定され、アパルトヘイト体制が成立した。

 アパルトヘイトでは法律で人種を「白人・アジア人・カラード・黒人」に分けた。実際の人種とアパルトヘイトの指す人種とはやや違いがあり、例えば先住民であるコイコイ人や、アジア人であるマレー人のうち、その大多数を占め、古くからケープに住むケープマレーは、人種とは関係なくカラードの扱いを受けた。また、政府の人口統計においては白人は1民族として扱われ、黒人は各民族ごとに集計されたため、白人が最大民族として公表される仕組みとなっていた。最大勢力である黒人に対し、印僑やカラードといった人口規模が白人に及ばない人種は黒人に比べやや優遇され、白人・黒人間の緩衝地帯となると同時に白人による分断統治の対象となった。印僑やカラードには教育予算や医療施設も白人ほどではないが整備された。カラードの集住するケープ州においては、選挙権が剥奪される一方でカラードの優遇雇用法が施行され、とくに黒人流入の多くなった70年代後半以降にはカラードに経済的利益をもたらした。このため、民主化後初の選挙である1994年の選挙においてカラードは、大部分が国民党へ投票した。

 アパルトヘイトは、「大アパルトヘイト」と呼ばれる土地の大規模な分離政策と、「小アパルトヘイト」と呼ばれるその他細則によって構成されていた。小アパルトヘイトは背徳法や隔離施設留保法など、一般生活において目に付きやすい部分で導入され、ゆえに大きな批判を浴び、小アパルトヘイトの多くが1980年代後半の改革により消滅、大アパルトヘイトは1990年代に撤回された。

 大統領に就任したマンデラは民族和解・協調を呼びかけ、アパルトヘイト体制下での白人・黒人との対立や格差の是正、黒人間の対立の解消、経済制裁による経済不況からの回復に努めた。

 また、ツツ主教を委員長とする真実和解委員会を発足させ、人権蹂躙(じゅうりん)を行ったと指摘された人物・団体は刑事訴追を行った。経済政策として、公共事業を通じて失業問題を解消させ、土地改革によって不平等な土地配分を解決し、5年間に毎年30万戸以上を建設することで住宅問題の解決を図り、上下水道などの衛生施設の完備をし、2000年までに250万世帯を電化するといった計画を発表した。しかし、実施機構整備の遅れ、財源不足、人材不足から達成するに至らず、特に黒人への富の再配分の実施は遅れ、失業率は増大し、社会犯罪は激増した。このことが先進諸国からの投資や、企業進出を妨げる要因となった。このような状況から、黒人の新政権への不満が高まることになってしまった。

 その後、ターボ・ムベキが新大統領に就任した後も状況は変わらず、失業率は3割を超え、またエイズが蔓延している。ムベキ政権下では黒人経済力増強政策がとられ、各企業に一定数の黒人登用を義務づけた。これにより黒人の中流層が勃興する一方で、アパルトヘイト時代に不十分な教育しか受けることのできなかった大多数の黒人は、この恩恵を受けることができず、貧富の差は拡大した。さらに、黒人経済力増強政策によって、有能な黒人のコストが跳ね上がり、企業の事業に対する負担となっている。アパルトヘイト政策から得た利益が、先進国の企業から還流する動きもない。

 1988年にはローマ会議において、国際刑事裁判所ローマ規程が採択され、署名期限までに139カ国により署名が行われた。国際刑事裁判所ローマ規程第7条では、アパルトヘイトは、「アパルトヘイト犯罪」として、「人道に対する罪」として規定された。