ホリショウのあれこれ文筆庫

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第593話 無学文盲の土木技師・服部長七

序文・義侠心

                               堀口尚次

 

 服部長七(ちょうしち)天保11年 - 大正8年は、明治期の日本の土木技術者。既存のたたきを改良し自ら編み出した人造石工法〈長七たたき〉により治水・用水分野の工事において業績を挙げた。広島県宇品港の岸壁工事完成の功績などにより緑綬褒章が授与されている。

 天保11年に三河国碧海郡棚尾村〈現在の愛知県碧南市新川〉の左官職人の家の三男として生を受ける。16歳での父の没後、一時豆腐屋を営むものの、翌年から左官修行を行い18歳より新川で左官業を始める。明治8年から明治9年にかけ、宮内省発注の御学問所のたたき工事や泉水工事、時の権力者である大久保利通木戸孝允・品川弥次郎らの屋敷のたたき工事などを手がけ大いに信用を得る。また1876年には人造石工法を編み出し、黒川〈名古屋〉開削時の樋門工事などの治水・灌漑工事で大きな成果を挙げている。また、この時期に岡崎の夫婦橋工事を行った際、工事完成間近に岩津天満宮に詣で夢枕に立った仙人のお告げで無事の完成となったとの逸話もある

 明治14年には人造石工法の海岸堤防工事への導入試行として、自ら高浜〈愛知県〉の服部新田開発を手がけ成功した。その後岡山県佐賀県の新田開発築堤工事で成果を上げ、明治17年からは広島県宇品港の工事を請け負う。宇品港の工事は5年3ヶ月を要した難工事であったが無事完成に漕ぎつけた。後の日清戦争日露戦争の際に広島が前線に近い重要拠点とされたのも、一つには長七により整備がなされた近代湾港としての宇品港があったことによる

 長七は自らを「無学文盲(もんもう)」と称し、著書は残していない。しかし、工事の現場で自ら工夫し情熱を傾けることでリーダーシップを発揮するタイプの人物であったとされる。また、工事の進捗がはかばかしくない際には私財をなげうったとのエピソードも多く残されている。長七が明治37年に事業から引退した理由の一つには、その義侠心から採算の合わない工事を少なからず引き受けたことにより服部組の経営が破綻状態であったことが挙げられている。

 明治37年に事業から引退し、氏子として再興に努めていた岩津天満宮〈愛知県岡崎市〉に間借りする形で隠居した。岩津天満宮には長七の功績を讃えた顕彰碑が建てられている。