ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1085話 更生保護事業の草分け・金原明善

序文・大久保利通に謁見

                               堀口尚次

 

 金原明善(きんぱらめいぜん)天保3年 - 大正12年〉は、明治時代の実業家。静岡県浜名郡和田村村長。天竜治水事業・北海道の開拓・植林事業など近代日本の発展に活躍した

 慶応4年、天竜川は大雨により堤防が決壊。浜松及び磐田に大被害をもたらした。天竜川は嘉永3年から慶応4年にかけて5回の大規模な決壊を記録しており、特に嘉永3年、明善19歳の時に遭遇した洪水は一瞬に安間村を沈めてしまった。それは明善にとって一生忘れられない災害であった。早速、京都に上がり天竜川の治水策を民生局へ建白した。だが明善の必死の訴えも届かなかった。しかし、8月に新政府は急に水害復旧工事に着手した。明治天皇東京行幸の道筋になる東海道の補修が目的であった。当時の明善は、その事を知らずに堤防の復旧工事を行う。明善の優れた運営手腕により、8月下旬に開始した工事は10月上旬に大略が終了。その功績が認められ、明治天皇東幸において浜松行在所の時に名字帯刀を許される名誉を得た。

 明治2年に明善は静岡藩から水下各村の総代・又卸蔵番格に申付けられた。そして明治5年に浜松県から堤防附属を申付けられ、戸長役・天竜川卸普請専務に任命された。明治7年には天竜川通堤防会社を設立。明治10年、全財産献納の覚悟を決めた明善は内務卿・大久保利通に築堤工事実現の為に謁見した。明善自身も一介の百姓が内務卿への謁見は叶わないと思っていた。ところが快く大久保利通との謁見は実現した。それは長年、誠実一途に天竜川の治水工事に奔走している明善の話が大久保利通の耳に入っていたからである。そして、近代的な治水工事事業が始まった。これらは後年の天竜川における治水計画の基礎となった。

 明治13年、当時政治犯として入獄していた自由民権運動家の川村矯一郎から監獄の窮状を聞いたことによって、出所者の保護を目的に勧善会を組織する。明治21年には、静岡監獄の副典獄〈副刑務所長〉となった川村によって勧善会を社団法人としての静岡県出獄人保護会社に改組し、日本で最初に出所者の保護事業に着手した。この会社の設立を契機として、浄土真宗本願寺派真宗大谷派等の宗派や僧侶やキリスト教徒の一部の個人によって各地に釈放者保護団体が設置されるようになり、現在の保護司制度の原点となったとされる。