序文・義民伝説
堀口尚次
愛知県安城市の市指定史跡に「柴田助太夫墓碑」がある。安城市浜屋町北裏の墓地の一角にその墓碑はあり、安城市教育委員会が建てた立札の全文を以下に記す。
『延宝5年に刑死した大浜茶屋村の庄屋、柴田助太夫の墓碑です。墓石は花崗岩の自然石でできているため、風化が激しく銘文等は判読することができません。
助太夫は、村が街道の宿場駅へ必要に応じて人馬を提供する助郷役(すけごうやく)を命じられた際、村の窮状を訴えてその免除を願い出たことで領主の怒りに触れ、領主であった刈谷藩によって死罪の処せられたと伝えられています。助郷が制度化されたのは元禄年間以降であるため疑問もありますが、その後、大浜茶屋村の助郷役は免除されました。
慶応2年の「大浜茶屋村高并(ならび)国役金書上帳」には、村では領主の代替わりごとに、死をもって村民の困窮を救った助太夫の一件を話し助郷役の免除が認められていたと記されています。このように村のために命を投げうった義民として、助太夫は永く顕彰されてきました。
村の人々は、助太夫の厚恩に感謝し、助太夫の旧宅跡に草庵を建立したといわれます。草庵は後に寺となり、助太夫の戒名である「本然玄性居士(ほんねんげんせいこじ)」と妻の「安海永祥大姉(あんかいえいしょうだいし)」にちなみ「本然山永安寺(ほんねんざんえいあんじ)」と名づけられました。永安寺(安城市浜屋町)には、愛知県指定天然記念物「永安寺の雲竜の松」があります。』
永安寺には「遍役罷免功労者柴田助太夫之終焉地」の石碑が建つ。
助郷は、日本における労働課役の一形態。江戸時代に、徳川幕府が諸街道の宿場の保護、および、人足や馬の補充を目的として、宿場周辺の村落に課した夫役のことを言う。また、夫役の対象となった村を指して言う「助郷村」も、略されて「助郷」と呼ばれる場合がある。初めは臨時で行われる人馬徴発であったが、参勤交代など交通需要の増大に連れ、助郷制度として恒常化した。江戸後期の助郷役の負担は、中山道の宿駅でもみられ、宿駅や助雛附の輸送量と通行者が増加による繁栄した一方で、無賃、または低賃銭の伝馬役などの負担があり、その不足分を補填のため助郷村の財政が窮乏し、「幕府や藩に窮状を訴えて減免を願い、宿駅と助郷村の紛争も相次いだ」という。
※筆者撮影