ホリショウのあれこれ文筆庫

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第918話 棒の手を伝えた水野又太郎良春

序文・南朝の勇古郷に還る

                               堀口尚次

 

 水野良は、南北朝時代の武将。通称は又太郎。号は無二。志段味(しだみ)城主、また尾張国山田郡新居(あらい)〈愛知県尾張旭市新居町〉に進出して、新居城主となった。

 桓武平氏高望(たかもち)流、平吉兼の子孫、尾張国山田郡水野郷〈愛知県瀬戸市〉に住した水野氏の一門である水野基家の曾孫と伝えられ、志段味郷〈名古屋市守山区〉を拠点とした豪族。

 元々、水野氏は承久の乱で水野高康が朝廷側で戦うなど尊皇であったが、元弘元年の元弘の乱では、良春が護良(もりよし)親王後醍醐天皇の第三皇子〉を擁した吉野金峯山寺僧兵団の将として戦った建武の新政が始まると、一時、郷里の志段味郷に帰ったが、延元元年には吉野に戻って、南朝方として転戦した。

 その後、再び志段味郷に帰り、志段味城を築城。

 康安元年に隠遁(いんとん)し、志段味郷の南を開墾して、新居村を開いた。応安元年、弟の報恩陽を定光寺から招聘(しょうへい)し、新居村に退養寺を開山。応安7年に新居城を築いて、一族の居城としたが、この年に没し、退養寺に葬られた。

 なお、水野氏の末裔の多い新居村には、良春が吉野の修験道から持ち込んだとされる棒の手が伝えられた。良春の号「無二(むに)」をとって無二流と称され、現在では尾張旭市を代表する伝統芸能の一つとなっている。

 新居城跡地近辺は城山公園として整備され、昭和52年も「尾張旭市旭城」が建てられている。また城跡近くの退養寺裏手に「水野又太郎良春の墓」がある。墓の隣には愛宕神社の祠があるが、これは退養寺が創建された後、旧新居村の鬼門の位置に火防(ひぶせ)の神である京都愛宕山愛宕神社から御神体を勧請して分祀したものだという。更に、名鉄瀬戸線尾張旭駅前には「水野又太郎良春之像」もある。

 因みに、名将・柴田勝家の小姓として活躍した、稲葉村〈現尾張旭市〉出身の「毛受(めんじょう)勝助家照」は、水野良春の4世孫の毛受照昌の子で、父が稲葉村に移住して開墾し、姓を「毛受」と改めたという。なお毛受の子孫は尾張徳川家に仕え、明治初期に再び名字を水野に戻したと云う。