ホリショウのあれこれ文筆庫

歴史その他、気になった案件を綴ってみました。

第644話 人は一代 名は末代

序文・侠客の元祖

                               堀口尚次

 

 幡随院(ばんずいいん)長兵衛(ちょうべえ)〈元和8年 - 慶安3年、明暦3年とも〉は、江戸時代前期の町人。町奴の頭領で、日本侠客の元祖ともいわれる。『極付幡随長兵衛』など歌舞伎や講談の題材となった。本名は塚本伊太郎。妻は口入れ屋の娘・きん。

 元和8年、誕生。唐津藩の武士・塚本伊織の一子とされているが、滅亡した波多氏の旧家臣の子であるという説や、幡随院〈京都の知恩院の末寺〉の住職・向導の実弟または幡随院の門守の子という説もある。

 父の死後、向導を頼って江戸に来て、浅草花川戸で口入れ屋を営んでいたとされる。旗本奴と男伊達を競いあう町奴の頭領として名を売るが、若い者の揉め事の手打ちを口実に、旗本奴の頭領・水野十郎左衛門〈水野成之〉に呼び出され殺害されたという。 没年月日は、『武江年表』やその墓碑によれば慶安3年であるが、明暦3年という説もある。享年36。墓所は、東京都台東区東上野6丁目の源空寺。

 芝居『極付幡随長兵衛』の筋書きでは、長兵衛はこれが罠であることを勘づいていたが、引きとめる周囲の者たちを「怖がって逃げたとあっちゃあ名折れになる、人は一代、名は末代」の啖呵を切って振り切り、殺されるのを承知で一人で水野の屋敷に乗り込む。酒宴でわざと衣服を汚されて入浴を勧められ、湯殿で裸でいるところを水野に襲われ殺される。水野は、長兵衛殺害の件に関してはお咎めなしであったが、約7年後の寛文4年3月26日、行跡怠慢の咎で実母・正徳院の実家である徳島藩藩主〈蜂須賀家当主〉・蜂須賀光の下に、弟・忠丘等共々お預けとなった。翌27日に評定所へ出頭したところ、出頭時の容姿が月代を剃らず着流しの伊達姿であったため、あまりにも不敬不遜であるとしてその日のうちに切腹、僅か2歳の嫡子・百助も誅されて、水野家は一時家名断絶となった。その後、弟の忠丘が元禄元年に赦された後、元禄14年に旗本となった事で、水野家は再興された。

 因みに、『人は一代、名は末代。天晴武士の心かな。』は、戦国武将・加藤清正の名言であり、「人の体は一代で滅びる。しかしその人が行った業績は永遠に残る。今の一瞬ではなく、未来に名前を残せ。永遠に生きよ。それが優れた武士の心構えだ。この武士を志ある人と理解しよう。」の意。