ホリショウのあれこれ文筆庫

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第917話 柴田勝家小姓・毛受勝助家照

序文・身代りとなり討死

                               堀口尚次

 

 毛受(めんじょう)家は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。柴田勝家の家臣

諱は初名を照景、後に家照、勝照と改めた。異説として吉親とするものもある。通称は初めは庄助、荘助で、後に勝助となった。尾張国春日井郡稲葉村〈現在の愛知県尾張旭市稲葉町〉の人。新居城水野良の4世孫の毛受照昌の子で、父が稲葉村に移住して開墾し、姓を「毛受」と改めたのが始まりと云う。12歳の頃より織田氏の家臣・柴田勝家に小姓として仕え、後に小姓頭に取り立てられ、1万石を与えられるまでになった。

 17歳の時、天正2年の伊勢長島攻めに従軍した。激戦の中、勝家軍の馬印〈騎標〉が一揆勢に奪われる事態が起きたことがあった。柴田勝家はこれを武門の恥として憤激し、敵中に入って討死しようとしたが、荘助〈毛受家照〉はこれを諌止(かんし)して、自分で敵陣に突入して見事に馬印を奪還。これを勝家に送り、再び敵中に突入した。勝家は大いに喜び、精兵を派して家照を救った。勝家は荘助に遍諱を与え、自身の名前の一字「勝」の字を与えて、字を勝助に、あるいは諱を勝照と名乗るように申し渡した。または「勝」と「家」の字の両方を与え、家照を名乗らせたとも伝わる

 天正11年、賤ケ岳の戦いにおいて柴田軍は羽柴秀吉に敗れて、勝家は斬り込み討死を覚悟したが、勝助はこれを諫めて、退却して籠城するように進言した。自らが代って戦うとして兵200を率いて出陣。秀吉軍が包囲すると、勝家の馬印「金の御幣」を掲げて大軍を惹きつけた。この時、兄・茂左衛門は兄弟で討死しようと言ったが、勝助は生き延びて母を扶養することを頼む。しかし義を好む母に対してそれは却って不孝であると言って、茂左衛門は拒否して、二人で進んだ。勝助は「我は柴田修理亮勝家なり」と言い放ち、身代わりになって果敢に応戦。勝家の脱出の時間を稼いで、討死した。享年25。秀吉はこの忠義を激賞して、北ノ庄城の落城後、毛受兄弟の首を母に返した。なお毛受の子孫は尾張徳川家に仕え、明治初期に再び名字を水野に戻したと云う

 愛知県尾張旭市の文化会館脇に「毛受勝家照之像中曽根康弘著〉」がある。また豊明市には「毛受兄弟記念碑・身代り弘法」なる石碑・弘法像がある〈十五代毛受善市建立とある〉。