ホリショウのあれこれ文筆庫

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第776話 天下一の美人「お市の方」波乱の生涯

序文・信長の妹という矜持

                               堀口尚次

 

 お市の方は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。初め近江の戦国大名浅井長政の継室で、後に織田家重臣柴田勝家正室となった。小谷(おだに)の方、小谷殿とも称される。名は通説では「於市」で、「お市姫」〈お市御料人〉とも云い、『好古類纂』収録の『織田家系譜』には「秀子」という名が記されている。江戸時代の書物の『祖父物語』や『賤獄合戦記』によれば「天下一の美人」〈天下第一番の御生付〉だと誉が高かったという。

 戦国大名織田信長の妹で、信長とは13歳離れている。通説では、父は織田信秀で、五女と伝えられ、通説では母は土田御前とされているが、生母は不詳。土田御前を生母とする説では、信行、秀孝、お犬の方は同腹の兄姉になる。

 婚姻時期については諸説ある。古くは永禄7年と考えられてきたが、同8年12月に守護大名・六角承禎(じょうてい)の命を受けた和田惟政が織田・浅井両家の縁組に奔走したものの長政側の賛同を得られずに一度頓挫していて、次の機会であった、永禄10年9月または永禄11年早々の1月から3月ごろであったとされる。このとき同10年9月に長政側から急ぎ美濃福束主・市橋長利を介して信長に同盟を求めてきたとされ、この縁談がまとまって、市は浅井長政に輿入れしたとされるこの婚姻によって織田家と浅井家は同盟を結んだ

 長政が姉川の戦いで敗北した後、天正元年に小谷城が陥落し、長政とその父・久政も信長に敗れ自害した。市は3人の娘「茶々江与」と共に藤掛永勝によって救出され織田家に引き取られる。信長死後の天正10年、柴田勝家羽柴秀吉が申し合わせて、清須会議で承諾を得て、柴田勝家と再婚した

 天正11年、羽柴秀吉と対立していた勝家が4月の賤ケ岳の戦いで敗れたため、勝家は敗走して越前北ノ庄城に帰城する。秀吉はこれを急追して城を包囲して激しく攻め立てた。落城の前夜、城を枕に切腹する覚悟を決めた勝家は、市に場外退去を勧めたが、市はこれを拒んで共に自決すると誓った。三人の娘だけは死出の道連れにするのを憐れんで富永新六郎という武士に預けて秀吉のもとに届けさせ、お市の方も「主筋」であるから大切にしてほしいとの書状を添えた。それから勝家と市、一族、直臣、女中衆は、夜を徹して酒宴を催して今生の別れをした上で、4月24日、80名余で共に自害した。享年37。北ノ庄城には火が放たれて焼け落ちた。