ホリショウのあれこれ文筆庫

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第824話 信長の三男・織田信孝

序文・血統の宿命

                               堀口尚次

 

 織田信孝(のぶたか)は、安土桃山時代の武将、大名。織田信長の三男伊勢国北部を支配していた豪族〈国衆〉神戸氏の養子となってこれを継いだため、神戸(かんべ)信孝(のぶたか)とも名乗った。

 清須会議が開かれるが、信雄(のぶかつ)〈信長次男〉と信孝は会議の席上から外された。『耶蘇年報』によれば「信孝が天下の主となる」という噂があったようであるが、会議の結果は天下人を定めずに4人の宿老の合議制とし、織田家家督は信長の嫡孫・三法師が継ぐと定められて、信孝は兄・信忠〈本能寺の変で信長と共に自害〉の領地であった美濃国一国と岐阜城を与えられることになり、同城で三法師の後見役を務めることになった。変の後、岐阜城加治田城主・斎藤利堯(としたか)が占拠していたが、利堯は城を信孝へ明け渡してその家老に収まった。

 信孝は本能寺に対して御触を出して、信長の御屋敷として造成された本能寺跡地を墓所とするように命じ、住僧を戻らせるように指示した。家督の問題が片付いた後、畿内を手中に収め同じ宿老である丹羽長秀池田恒興を実質的麾下(きか)〈直属の家来〉に置いて織田家の主導権を握った秀吉が、天下人を継いだかのような行動を取り始めたために、信孝はこれと反目して、同じくこれに不満を持っていた柴田勝家に接近した

 羽柴秀吉丹羽長秀池田恒興三宿老が、清洲会議の決定を反故にし、織田信雄を暫定的な織田家当主として主従関係を結んだ。後にこれは徳川家康も賛同して信雄を支持した。両陣営の対決が不可避の情勢になると、柴田勝家前田利家を介して秀吉と一旦和睦したが、これは勝家の領土が雪国で、冬は行動が制限される為であった。それを見抜いていた秀吉は、逆に前田利家を調略した。

 秀吉は信雄の軍勢に岐阜城を包囲させた。この頃、秀吉は、信孝と内通したとの疑惑で、配下の飯沼長継を処刑している。頼みの綱である柴田勝家を失った信孝は、やむなく開城することになった。一説では、降伏したのではなく信雄が信孝を欺いて和議を持ちかけ、岐阜城を開城させたという。信雄は信孝尾張国へと向かわせたが、信孝の家来の外様衆は離散し、神戸四百八十人衆は団結して帰国した。主人に殉じようとした家来は太田新左衛門尉、小林甚兵衛以下、27人の近習のみだった。信孝に仕えた武士たちは、秀吉に嫌われて登用されなかったとも伝わっている。

 信孝長良川を下って尾張国知多郡に奔(はし)り、野間〈愛知県美浜町〉の内海大御堂寺〈野間大坊〉に退いた。ここの安養院において、信雄の命令によって、信孝は自害させられた。これには秀吉の内意があったともいわれている

 信孝は切腹の際、腹をかき切って腸をつかみ出すと、床の間にかかっていた梅の掛け軸に臓物を投げつけたといわれる。享年26。安養院には短刀とその血の跡が残る掛け軸が伝来している。太田新左衛門尉は介錯を務めて後、自害して殉死した。

 信孝の辞世は二つあり、『天正記』には「たらちねの 名をばくださじ 梓弓 いなばの山の 露と消ゆとも」と記されている。ただし、天正記には自決した場所が岐阜城になっているなど間違いも見られる。もう一つが『太閤記』や『勢州軍記』などに見られる「昔より主(しゅう)を内海(うつみ)の野間(のま)なれば 報いを待てや 羽柴筑前〈内海→討つ身・羽柴筑前→秀吉〉である。信孝の秀吉への激しい怒りが感じられる句であり、同じ尾張国野間の内海で源義朝騙(だま)し討ちにして平清盛に首を献じた逆臣・長田忠致の故事にかけたものといわれる

 ただし、どちらの出典も江戸時代以降の軍記物であり、同時代の資料ではない。 信孝の家臣は、大野の海音寺で信孝の葬儀を営んだと言い、同寺に位牌が残っている。また、信孝の首は家臣の大塚俄左衛門長政が神戸に葬ろうとして持ち帰ったが、戦乱の末に果たせず、関に葬ったという。大塚はもともと信孝より信長供養のために福蔵寺の創建を命じられていたのでここに首塚を作ったようである。しかし、福蔵寺には位牌があるが、首塚の墓碑を紛失してしまっており現存しない。今は四百年忌に新しく作られた供養墓に形を変えている。信孝の墓は、前述の生害地である安養院跡地のある大御堂寺とこの福蔵寺にある。

私見】信孝を自害に追い込んだのは、紛れもなく秀吉であろう。清須会議に呼ばれなかった時から、秀吉は織田の血統の廃除が眼中にあったと思われる。次男の信雄を巧みに操ったのだろう。それにしても、源義朝が騙し討ちにあった野間大坊で自害に追い込まれるとは、戦国の世とはいえ下剋上を絵にかいたような事象だ。私は、過日野間大坊・安養院を訪れ、信孝の墓を確認している。ここは源義朝織田信孝も、家臣から騙し討ちにあったという悲劇の現場だ。