ホリショウのあれこれ文筆庫

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第763話 「敵は本能寺にあり」と言ってない

序文・明智光秀の謎

                               堀口尚次

 

 明智光秀は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。美濃国明智氏の支流の人物。一般に美濃の明智荘の明智城の出身と言われているが、他の説もある。最初は、土岐氏に代わって美濃の国主となった斎藤道三に仕えた。道三と義龍の親子の争い〈長良川の戦い〉の結果、浪人となり、越前国一乗谷に本拠を持つ朝倉義景を頼り、長崎称念寺の門前に十年ほど暮らし、このころに医学の知識を身に付ける。その後、足利義昭に仕え、さらに織田信長に仕えるようになった。

 天正10年5月、徳川家康饗応役であった光秀は任務を解かれ、羽柴秀吉の毛利征伐の支援を命ぜられ、同年6月2日早朝に出陣する。その途上の亀山城内か柴野付近の陣で、光秀は重臣達に信長討伐の意を告げたといわれる。軍勢には「森蘭丸から使いがあり、信長が明智軍の陣容・軍装を検分したいとのことだ」として京都へ向かったという。『本城惣右衛門覚書』によれば、雑兵は信長討伐という目的を最後まで知らされておらず、本城も信長の命令で徳川家康を討つのだと思っていた。光秀軍は信長が宿泊していた京都の本能寺を急襲して包囲した。光秀軍13,000人に対し、近習の100人足らずに守られていた信長は奮戦したが、やがて寺に火を放ち自害したとされている。信長の死体は発見されなかった。

 「敵は本能寺にありは、明智光秀本能寺の変の際に発したとされる言葉をもととした慣用句。主君の織田信長より、備中で毛利と交戦中の羽柴秀吉を支援するよう命じられ、丹波亀山城を発った光秀の軍勢は、討つべき敵は本能寺にいる信長であるとして、そのまま進路を東にとって京都の本能寺に向かった。この言葉はその際に発せられた言葉とされているが、同時代史料には光秀の言葉とされるものは残っておらず、後世に創作された言葉であると考えられている