序文・戦国乱世の象徴
堀口尚次
荒木村重は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。利休十哲の1人である。元亀2年の白井河原の戦いで勝利し、池田氏が仕えていた織田信長からその性格を気に入られて、三好氏から織田家に移ることを許された。
天正6年、三木合戦で羽柴秀吉軍に加わっていた村重は有岡城にて突如、信長に対して反旗を翻(ひるがえし)した。一度は糾問の使者〈明智光秀ら〉に説得され翻意し、釈明のため安土城に向かったが、途中で寄った茨木城で家臣から「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け、伊丹に戻った。
秀吉は村重と旧知の仲でもある小寺孝隆〈のちの黒田官兵衛〉を使者として有岡城に派遣し、翻意を促したが、村重は孝高を拘束して土牢に監禁した。以後、村重は有岡城に篭城し、織田軍に対して1年の間徹底抗戦したが、側近の中川清秀らが信長方に寝返ったために戦況は圧倒的に不利となった。その後も万見重元らの軍を打ち破るなど、一旦は織田軍を退けることに成功するが、兵糧も尽き始め、期待の毛利氏の援軍も現れず窮地に陥ることとなる。
それでも、村重は「兵を出して合戦をして、その間に退却しよう。これがうまくいかなければ尼崎城と花隈城とを明け渡して助命を請おう」と言っていたが、天正7年に単身で有岡城を脱出し、嫡男・村次の居城である尼崎城へ移ってしまった。ただし、これは闇雲に逃走したわけではなく、毛利軍の将の詰めていた尼崎へ援軍要請に向かった為である。現にその後も西へ逃亡することなく半年以上も尼崎に留まり、抗戦している。
信長は「尼崎城と花隈城を明け渡せば、おのおのの妻子を助ける」という約束を、村重に代わって有岡城の城守をしていた荒木久左衛門ら荒木の家臣たちと取り交わした。久左衛門らは織田方への人質として妻子を有岡城に残し、尼崎城の村重を説得に行ったが、村重は受け入れず、窮した久左衛門らは妻子を見捨てて出奔してしまった。信長は村重や久左衛門らへの見せしめの為、人質の処刑を命じた。
信長は荒木一族を「侫人(ねいじん)」とし、侫人とは村重や約束を守らない久左衛門らを指しており、不憫と思いながらも「荒木一族は武道人にあらず」と人質全員を処刑するように命じた。まず村重の室〈継室もしくは側室〉だしら荒木一族と重臣の併せて36名が妙顕寺に移送、ついで尼崎城の近く、信忠が陣をはっていた七つ松に有岡城の本丸にいた人質が護送され、97本の磔柱を建て家臣の妻子122名に死の晴着をつけ、鉄砲で殺害されたようである。それが終わると男性124名、女性388名が四軒の農家に入れられ、生きたまま農家ごと火をつけたようである。有岡城の女房衆122人が尼崎近くの七松において鉄砲や長刀で殺された。京都に護送された村重一族と重臣の家族の36人が、大八車に縛り付けられ京都市中を引き回された後、六条川原で斬首された。その後も信長は、避難していた荒木一族を発見次第皆殺しにしていくなど、徹底的に村重を追及していった。天正9年には、高野山金剛峯寺が村重の家臣をかくまい、探索にきた信長の家臣を殺害したため、全国にいた高野山の僧数百人を捕らえ、殺害している。
しかし、肝心の村重本人は息子・村次と共に、親戚がいる花隅城に移り、最後は毛利氏のもとに亡命し、尾道に隠遁したとされる。
天正6年に謀反を起こすまで、村重は、千利休ら堺の茶人たちと度々茶会を行っていた。天正10年、信長が本能寺の変で横死した後、村重は尾道から堺に移ったとみられ、天正11年初めには道薫(どうくん)と名乗って茶会に出席している。天正14年5月4日、堺で死去。享年52。
村重の織田信長に対する謀反の理由は、諸説があって今でも定かではない。ただ、信長は村重を重用していたため、その反逆に驚愕し、翻意を促したと言われている。
広島県尾道市にある時宗 西郷寺の末寺に「水之庵」というのがあった。『陰徳太平記』や現地の伝承では一時、荒木村重が尾道に落ち延びて「水之庵」に隠遁していたという伝説がある。