ホリショウのあれこれ文筆庫

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第762話 信長の小姓・森蘭丸

序文・信長と運命を共にした小姓

                               堀口尚次

 

 森成利(なりとし)は、安土桃山時代の武将。織田信長の近習(きんじゅ)〈側近〉をつとめ、本能寺の変で主君と2人の弟と共に討死。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系、河内源氏の棟梁・鎮守府将軍八幡太郎義家の7男・陸奥七郎義隆の子孫にあたる。

 軍記物等で用いられる蘭丸(らんまる)の通称で知られるが、同時代文書では「乱」あるいは「乱法師」という表記が用いられている。諱は『寛政重修諸家譜』に長定(ながさだ)とあるが、本人の署名では「成利」である。また長康(ながやす)とする文書もある。

 永禄8年、織田信長の家臣・森可成(よしなり)の三男として尾張葉栗郡蓮台に生まれる。

天正5年5月、織田信長小姓として弟らと共に召し抱えられる〈『兼山記』〉。以後、信長の側近として活動する。天正9年4月20日には近江国に500石の知行を与えられた。

 本能寺の変において本能寺で明智光秀の軍1万に囲まれて健闘するも、信長に槍で傷を負わせた明智配下の安田国継〈天野源右衛門〉によって討ち取られた。享年18。討たれる際、成利は白小袖を着て修善寺の平元結びで髪を茶筅髷(ちゃせんまげ)に結っていたといわれる。ただし、これは源右衛門本人の証言によるものであり、信長に槍で傷を負わせたという証言にも疑問が残っており〈『天野源右衛門覚書』〉確証はない〈『名将言行録』〉。『本城惣右衛門覚書』では自身らが最初に本能寺に入ったとされるが、信長や成利を明示した人物は描写されていない。ルイス・フロイスの『日本史』では信長はしばらく戦ったが、腕に銃弾を受けると、自ら部屋に入り、襖を閉じてそこで自害したとされている。このように信長や成利の最期も諸説が入り乱れており、確たる事実は明らかになっていない。

 一説では、信長から寵愛を受け、衆道(しゅどう)としての関係があったともいわれている。衆道とは日本における女人禁制又は極めて女人禁制に近い環境で発生した、身分や立場の差がある男性同士の男色(なんしょく)をいう

 兵庫県赤穂市の大石神社に、森蘭丸所用の槍が伝わっている。 元は浅野家断絶後に転封された森家が所持していたとされ、森家藩祖と蘭丸を祀る赤穂神社に神宝として伝来、第二次大戦後赤穂神社が大石神社に合祀されたため大石神社の所蔵となる。宝物殿で公開されている。