序文・室町幕府の終焉
堀口尚次
鞆(とも)幕府は、備後国の鞆〈現・広島県福山市〉に存在した室町幕府の亡命政権。戦国時代、織田信長によって擁立された室町幕府第15代将軍の足利義昭(よしあき)は、やがて信長と対立。京都を追われ、流浪を重ねながら最終的に毛利輝元を頼り、鞆に身を寄せる。一般的に義昭が京都を離れた時点で室町幕府は滅んだとされるが、義昭はその後も征夷大将軍の地位にあり、鞆で政権を構えた。また毛利輝元を副将軍に据え、幕府直轄下の寺院を支配して援助を得るなど、将軍としての影響力をもっていた。近年の研究では、諸説あるが、義昭が鞆を去る11年間の政権を「鞆幕府」と呼んでいる。
室町幕府の将軍・足利義昭は槙島(まきしま)城の戦いで織田信長に敗れ、京都より追放された。以後、義昭は河内・和泉・紀伊など、各地を流浪した。西国の毛利輝元を頼り、その勢力下であった備後国の鞆に動座(どうざ)〈本拠地を移す〉した。義昭が鞆を選んだ理由としては、この地はかつて足利尊氏が光厳(こうごん)上皇より新田義貞追討の院宣(いんぜん)〈命令文〉を受けたという、足利将軍家にとっての由緒がある場所であったからである。輝元ら毛利氏に庇護(ひご)されていたこの時期の室町幕府は、「鞆幕府」とも呼称される。義昭はまた、輝元を将軍に次ぐ地位たる副将軍に任じた。
豊田秀吉が九州に向かう途中、義昭の住む鞆の御所に近い赤坂に立ち寄り、ここで義昭と対面した。義昭は秀吉と贈り物を交換し、親しく酒を酌み交わした。義昭は毛利氏の兵に護衛されながら、京都に帰還した。義昭にとっては、およそ15年ぶりの京都であった。
義昭は秀吉とともに参内し、将軍職を朝廷に返上した。このとき、秀吉の奏請によって、義昭は朝廷から准三宮(じゅさんぐう)の称号〈待遇〉を受けている。これにより、室町幕府は名実ともに滅亡した。
義昭とその周辺は鞆に下向し、依然として政治的な勢力であったものの、鞆にいた義昭には朝廷との関わりがなかった。この時の義昭は「天下人」として天下を掌握できておらず、また朝廷を庇護する存在でもなかった。そのため、鞆幕府の呼称を用いない研究者もいる。
尚、信長が横死した本能寺の変において、足利義昭を黒幕とする説もある。
※足利義昭