序文・越前とは何のかかわりもない愛知県岡崎の藩主
堀口尚次
大岡忠相(ただすけ)は、江戸時代中期の幕臣・大名。大岡忠世家の当主で、西大平藩〈現愛知県岡崎市〉初代藩主。8代将軍・徳川吉宗が進めた享保の改革を町奉行として支え、江戸の市中行政に携わったほか、評定所一座に加わり、関東地方御用掛(じかたかかり)や寺社奉行を務めた。越前守(えちぜんのかみ)だったことと『大岡政談』や時代劇での名奉行としてイメージを通じて、現代では大岡越前守として知られている。
在職中には、奉行支配の幕領と紀州徳川家領の間での係争がしばしば発生しており、山田〈現・伊勢市〉と松坂〈現・松阪市〉との境界を巡る訴訟では、紀州藩領の松坂に有利だった前例に従わずに公正に裁いたという。当時の紀州藩主で、後に将軍職に就任し忠相を抜擢する吉宗は、事実上一方の当事者だったにもかかわらず、忠相の公正な裁きぶりを認めたという。山田奉行時代に忠相と吉宗の間に知縁ができたとする同様の巷説(こうせつ)〈うわさ〉は幾つかあるが、実際には奉行時代の忠相には他領との係争を裁定する権限はなく、後代に成立したものであると考えられている。
ある時、徳川吉宗が忠相に「その方は何人くらい殺したか」と問われた。忠相は「二人殺しました」と答えた。吉宗は笑って「二人とは百分の一か、それとも千分の一か〈本当は二百人、いや二千人だろう〉」。忠相は「死刑にふさわしい罪を犯して処刑された者は、私が殺したのではありません。私が殺したと申し上げた二人のうち、一人は私の僉議(せんぎ)〈取り調べ〉が厳しすぎたために、犯してもいない罪を自白して処刑された者で、もう一人は死刑になるほどの罪ではなかったのに、判決が下る前に牢死〈牢内で病死〉した者です」と答えた。忠相は「私は厳しく取り調べて自白させましたが、その者の様子がどこか気になり、じっくりと時間をかけて調べていくうちに真犯人が判明しました。しかし、自白した者は、すでに死刑に処されていました」と答え、冤罪で無実の人間を死に至らしめたことを後々まで悔やんでいたという。
江戸町奉行時代の裁判の見事さや、江戸の市中行政のほか地方御用を務め広く知名度があったことなどから、忠相が庶民の間で名奉行、人情味あふれる庶民の味方として認識され、庶民文化の興隆期であったことも重なり、同時代から後年にかけて創作「大岡政談」として写本や講談で人々に広がった。名乗りが忠相と同じ「能登守」がいたため、忠相は「越前守」と改めた経緯がある。
※勤務中はいつも髭抜きを使用していた