ホリショウのあれこれ文筆庫

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第389話 遠山景元こと「遠山の金さん」

序文・老中水野忠邦に睨まれる

                               堀口尚次

 

 遠山景元(かげもと)は、江戸時代の旗本。幼名は通之進、通称は実父と同じ金四郎。官位は従五位下(じゅごいのげ)左衛門少尉(さえもんしょうじょう)。管職は、江戸北町奉行大目付、後に江戸南町奉行。テレビドラマ〈時代劇〉『遠山の金さん』及び『江戸を斬る』の主人公のモデルとして知られる。

 天保12年に始まった天保の改革の実施に当たっては、町人達を奉行所に呼び出して分不相応の贅沢と奢侈(しゃし)〈極端な贅沢〉の禁止を命令していて、風俗取締りの町触(まちぶれ)〈おふれ〉を出したり、寄席の削減を一応実行しているなど方針の一部に賛成していた。しかし、町人の生活と利益を脅かすような極端な法令の実施には反対、南町奉行矢部と共に老中水野忠邦目付鳥居と対立する

 天保12年、景元は水野に伺書を提出しているが、その内容は町人への奢侈を禁止していながら武士には適用していないことを挙げ、町人に対しても細かな禁止ではなく分相応の振る舞いをしていればそれでよいとする禁止令の緩和を求めた。水野はこの伺書を12代将軍になった家慶に提出したが、景元の意見は採用せず贅沢取締りの法令を景元に町中に出させた。同年に鳥居による策謀で矢部は過去の事件を蒸し返され、翌天保13年に罷免・改易となり伊勢桑名藩で死亡、鳥居が後任の南町奉行になり、景元は1人で水野・鳥居と対立することになった。

 株仲間の解散令を町中に流さず将軍へのお目見え禁止処分を受けたり、床見世〈現在の露店に相当する〉の取り払いを企てた水野を牽制したり、人返しの法にも反対して実質的に内容を緩和させるなど、ことごとく改革に抵抗する姿勢を保った。しかし天保14年、鳥居の策略によって北町奉行を罷免され、大目付になる。栄転であり地位は上がったが、当時は諸大名への伝達役に過ぎなかったため実質的に閑職だった。

 景元は青年期の放蕩(ほうとう)時代に彫り物を入れていたといわれる。有名な「桜吹雪」である。しかしこれも諸説あり、「右腕のみ」や「左腕に花模様」、「桜の花びら1枚だけ」、「全身くまなく」と様々に伝えられる。また、彫り物自体を疑問視する説や、通常「武家彫り」するところを「博徒彫り」にしていたという説もある。老中には「この桜吹雪が目に入らねえか!」と言えなかったのだ。

※時代劇の遠山の金さん         ※遠山景元