ホリショウのあれこれ文筆庫

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第388話 水野忠邦・天保の改革の是非

序文・江戸幕府崩壊の足音が・・・

                               堀口尚次

 

 天保年間には全国的な凶作による米価・物価高騰や天保の大飢饉百姓一揆や都市への避難民流入による打ち壊しが起こっており、大坂での大塩平八郎の乱などの国内事情に加え、アヘン戦争やモリソン号事件など対外的事件も含め、幕政を揺るがす事件が発生していた。

 天保8年、将軍徳川家斉は西丸(にしのまる)で退隠し大御所となり、家慶が将軍職となる。老中首座の水野忠邦天保9年には農村復興を目的とした「人返しの法※江戸の人口を減少させ地方の農村部の人口を確保する」や「奢侈(しゃし)〈度を過ぎて贅沢なこと〉禁止」を諮問(しもん)〈問題提起〉しているが、大奥や若年寄ら西丸派〈家斉の寵臣たち〉による反対を受け、水戸藩徳川斉昭による後援も得たが、幕政改革は抵抗を受けていた。

 天保12年に大御所家斉が薨去(こうきょ)し、水野忠邦は西丸派や大奥に対する粛清を行い人材を刷新し、農本思想を基本とした天保の改革が開始される。将軍徳川家慶(いえよし)享保寛政の改革の趣意に基づく幕政改革の上意を伝え、水野は幕府各所に綱紀粛正と奢侈禁止を命じた。改革は江戸町奉行遠山景元〈遠山の金さんのモデル〉を通じて江戸市中にも布告され、華美な祭礼や贅沢・奢侈はことごとく禁止される。なお、大奥については数人の大奥女中に抵抗され、改革の対象外とされた。

 倹約令を施行し、風俗取締りを行い、芝居小屋の江戸郊外〈浅草〉への移転、寄席の閉鎖など、庶民の娯楽に制限を加えた。歌舞伎役者の7代目市川團十郎人情本作家などが処罰された。町方や寺社境内、新吉原などに200ヶ所を超える寄席が存在していたが、一部の古くから存在する寄席を除いて大半が規制を受け、廃業した。なお、新吉原の6ヶ所についてはすべて免除されている。また、免除された寄席も、演目を神道講釈や心学など娯楽以外のものに限るなど規制を受け、寄席は衰微するが、水野失脚後には息を吹き返している。

 天保の改革が行われた時期には、既に幕府の権威が低下してきたこと、加えて財政のみならず行政面など問題点が多かったため、大奥の改革への妨害があり、結果的に改革が煩雑となってしまい、社会を混乱に導き、失敗と判断された。改革はあまりに過激で庶民の怨みを買ったとされる。