ホリショウのあれこれ文筆庫

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第774話 小便公方・徳川家重

序文・徳川吉宗の傀儡

                               堀口尚次

 

 徳川家重は、江戸時代中期の江戸幕府の第9代征夷大将軍である。正徳元年、和歌山藩主〈後に征夷大将軍徳川吉宗の長男として江戸赤坂の和戸歌山藩邸で生まれる。母は家臣・大久保忠直の娘・須磨子〈深徳院〉。幼名は長福丸。

 吉宗が将軍に就任すると同時に江戸城に入り、享保10年に元服、それまでの将軍家の慣例に倣(なら)い、通字の「家」の字を取って家重と名乗る。生来虚弱の上、障害により言語が不明瞭であったため、幼少から大奥に籠りがちで酒色にふけって健康を害した享保16年、一品邦永(いっぽんくになが)親王の王女比宮(なみのみや)〈増子〉と結婚した。

 発話の難に加え、猿楽〈能〉を好んで文武を怠ったため、文武に長けた異母弟宗武〈田安徳川家の祖〉と比べて将軍の継嗣として不適格と見られることも多く、吉宗や幕閣を散々悩ませたとされる。このため、一時は老中首座松平乗邑(のりさと)によって廃嫡(はいちゃく)および宗武の擁立(ようりつ)をされかかったことがある。吉宗は家重を選び、延享2年に吉宗は隠居して大御所となり、家重は将軍職を譲られて第9代将軍に就任した。しかし宝暦元年に死去するまでは吉宗が大御所として実権を握り続けた

 家重の言語不明瞭は、脳性麻痺による言語障害とする説がある。

 あまりに頻繁に尿意を催していたせいで口さがない人々から小便公方と揶揄された。江戸城から上野寛永寺へ出向く道中〈数km〉に2、3箇所も便所を設置させたとされ、少なくともこの時期、いわゆる頻尿であったことは確認できる。

 御簾中(ごれんじゅう)が死去したのち、側室・お幸の方を寵愛した。やがて長男・家治が生まれ、お幸の方は「お部屋様」と崇められた。しかし家重は後に、お千瀬の方を寵愛するようになった。女だけでなく酒にも溺れるようになった家重に対し、お幸の方が注意をしたもののそれを聞かず、むしろ疎むようにさえなった。そうした中、側室との睦(むつ)みごとの最中にお幸の方が入ってきたことで癇癪(かんしゃく)を起こし、お幸の方を牢獄に閉じ込めた。それを聞いた吉宗が「嫡男の生母を閉じ込めるのはよくない」と注意し、お幸の方は牢から出られたものの、2人の仲が戻ることはなかったという。