序文・朝廷から授かる栄誉職
堀口尚次
征夷大将軍は、朝廷の令外官(りょうげのかん)の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。鎮守将軍と同格の栄誉職である。
飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。
平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権〈幕府〉を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が、一時的な空白を挟みながら続いた。慶応3年、徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。なお、この3幕府の間、源頼朝から徳川慶喜に至るまで将軍の官位は従一位~正二位であり、補佐役にあたる執権、管領、大老はおおむね従四位どまりであった。これは現代の叙勲では首相と本省課長、朝廷の役職でもそれに相当する格差である。将軍は補佐役以下に実権を完全掌握されて傀儡でしかなかった例も少なくないが、それでも形式上の権威は圧倒的であった。
14代将軍徳川家茂 は、天皇や一橋慶喜らと共に賀茂神社に参拝しているが、天皇が公式に御所を出たのは237年ぶりであった。その後、天皇と共に石清水八幡宮へ参詣する予定であったが、これを病と称して欠席する。源氏所縁の神前で、天皇から直に攘夷の命を下されるのを避けたともされている。将軍名代として石清水八幡へ供奉した一橋慶喜も、天皇がいる神前に呼び出されたが、急な体調不良としてその場を脱している。このことにより尊皇派諸士は家茂に反発し、将軍殺害予告の落首(らくしゅ)が掲げられた。江戸に陸路で帰還した慶喜の一行は、道中にて襲われている。朝廷は家茂の江戸帰還をなかなか許可しなかったため、老中格の小笠原長行が軍艦と軍勢1400を率いて大坂に向かい、朝廷および攘夷派を威圧している。滞在3か月、家茂は道中の安全を考慮し、大坂から海路、蒸気船を使い江戸に帰った。家茂は、病弱で虫歯のため悪印象だが実は面長鼻高の古典的美男で大奥人気が将軍継嗣の決定打に。賀茂社参道で高杉晋作 は家茂の意外な雄姿に驚き「いよ!征夷大将軍」と口走ったのかも知れない。