ホリショウのあれこれ文筆庫

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第1104話 霊感ヤマカン第六感の山本勘助

序文・武田信玄の軍師

                               堀口尚次

 

 山本勘助は、戦国時代の武将。『甲陽軍鑑』においては名を勘助、諱を晴幸、出家後道鬼を称したという。勘助の諱・出家号については文書上からは確認されていなかったが、近年、沼津山本家文書「御証文之覚」「道鬼ヨリ某迄四代相続仕候覚」により、江戸時代段階で山本菅助子孫が諱を「晴幸」、出家号を「道鬼」と認識していたことは確認された。

 近世には武田二十四将に含められ、武田の五名臣の一人にも数えられて、武田信玄の伝説的軍師としての人物像が講談などで一般的となっているが、「山本勘助」という人物は『甲陽軍鑑』やその影響下を受けた近世の編纂物以外の確実性の高い史料では一切存在が確認されていないために、その実在について長年疑問視されていた。しかし近年は「山本勘助」と比定できると指摘される「山本菅助」の存在が複数の史料で確認されている。

 各地に残る家伝や伝承も江戸時代になって武田信玄の軍師として名高くなった勘助にちなんだ後世の付会(ふかい)である可能性が高く、武蔵坊弁慶の伝承・伝説と同様の英雄物語に類するものとするのが史家のあいだでは通説である。

 『甲陽軍鑑』などには三河国宝飯郡牛窪〈愛知県豊川市牛久保町〉の出とある。 愛知県豊川市牛久保町には「山本勘助の墓」「山本勘助養父屋敷跡」史跡がある。また近隣の豊橋市賀茂町には「山本勘助晴幸生誕の地」史跡もある。豊川市のHPに以下の記述あり。

 『牛久保町寺町は、その名からうかがえるように多くの寺が建てられている所です。その中の一つ、長谷寺には、風林火山で知られる山本勘助の墓があります。武田信玄の軍師として知られる勘助は、八名郡賀茂村出身。牛久保在住以来長谷寺の念宗和尚と親交があり、信玄に召し抱えられたとき遺髪を和尚に託しました。永禄4年〈1561年〉勘助が川中島の合戦で戦死した際、念宗和尚が建立した五輪の墓が今も残っています。長谷寺には、豊川市文化財に指定された木造摩利支天騎像もありますが、これは勘助の守護神であったと伝えられています。』

 なお、当て推量なことを「山勘」「ヤマカン」と言うが、一説には山本勘助の名前が由来とされている。