ホリショウのあれこれ文筆庫

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第876話 関白・近衛前久の気概

序文・上杉謙信との盟約

                               堀口尚次

 

 近衞前久(さきひさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての公卿。官位は従一位・関白、左大臣太政大臣、准三宮。近衛家17代当主。天文23年に関白左大臣となる。また、藤氏長者(とうしのちょうじゃ)〈藤原氏の代表〉に就任した。天文24年、従一位に昇叙し、足利将軍家からの偏諱〈「晴」の字〉を捨てて、名を前嗣(さきつぐ)と改めた。この当時、将軍・足利義輝は三好名慶(ながよし)との対立により、京から朽木に動座しており、改名したのは義輝との関係を断とうとしたからとされる。

 永禄2年、越後国長尾景虎〈後の上杉謙信〉が上洛した際、前嗣景虎互いに肝胆(かんたん)照らし合い、血書の起請文を交わして盟約を結んだ。永禄3年、前嗣関白の職にありながら景虎を頼り、越後に下向した。

 永禄4年初夏、前嗣景虎の関東平定を助けるために上野・下総に赴き足利藤氏を支援するなど、公家らしからぬ行動力をみせた景虎が越後に帰国した際も危険を覚悟の上で古河城に残り、情勢を逐一越後に伝えるなど、大胆かつ豪胆な人物でもあった。その後、謙信は信濃へ出兵し、武田信玄といわゆる第四次川中島の戦いを演じることになる。謙信の活躍はただちに古河城の前嗣にも伝えられ、前嗣は謙信に宛てて戦勝を賀す書状を送っている。この頃、名を前嗣から前久に改め、花押を公家様式から武家様式のものに変えた。古河入城にあたった前久の決意めいた気概が窺える

 しかし、武田・北条の二面作戦から謙信の関東平定が立ち行かなくなると、次第に前久は不毛感を覚え、永禄5年、失意のうちに帰洛する。この帰洛は謙信の説得を振り切ってのことで、謙信はかなり立腹したとされる。しかし、一説には謙信の関東平定後に上洛を促す計画であったともされている。

 前久五摂家筆頭という名門貴族の生まれにありながら、その半生を流浪に費やした。また、当代屈指の文化人でもあり、中央の文化の地方波及にも貢献している。

 京都を離れ、地方を流浪遍歴することを余儀なくされたが、前久にとっては、単に経済的困窮や戦乱を逃れるためのものではなく、むしろ政治への積極参加のための手段の一つであった。同時に地方に中央の文化を伝播する上で、重要な役割を果たしたと評価されている。