序文・加納御前の企て?!
堀口尚次
亀姫は、徳川家康の長女。母は築山御前〈瀬名今川氏〉で、松平信康は同母兄。奥平信昌の正室。
永禄3年 、駿府で生まれた。元亀4年ごろに家康が奥三河における武田氏の勢力を牽制するため奥平氏の帰順を試みた際、織田信長の提案で亀姫と新城城主・奥平信昌の婚約が提示条件の一つとなり、長篠の戦いをめぐる戦功への家康からの褒美として天正4年7月、信昌へ嫁いだ〈「徳川幕府家譜」『徳川諸家系譜第一』〉 。生涯、信昌に一人も側室を置かせず、自身で4人の男子〈家昌・家治・忠政・忠明〉と1女〈大久保忠常室〉を儲ける。慶長5年の関ケ原の戦いの戦勝により、慶長6年夫・信昌が美濃加納10万石に封じられ、三男・忠政共々加納に移ったことから、加納御前・加納の方と呼ばれるようになった。やがて忠政、宇都宮藩の嫡男・家昌、信昌と夫子らの相次ぐ死去を受けて、剃髪して盛徳院と号し、幼くして藩主となった孫たちの後見役となった。
寛永2年、加納において66歳で死去した 。戒名は盛徳院殿香林慈雲大姉。墓所は光国寺〈岐阜県岐阜市〉、法蔵寺〈愛知県岡崎市〉、大善寺〈愛知県新城市〉にある。4人いた妹たちには全て先立たれている。
嫡男・家昌の遺児で、わずか7歳で宇都宮藩主となった孫の奥平忠昌は、12歳の時に下総古河藩に転封となった。忠昌の替わりに宇都宮へ入封したのは本多正純である。亀姫は正純を快く思っていなかった。その理由は、大久保忠隣失脚事件である。
信昌・亀姫夫妻の一人娘が、大久保忠隣の嫡子・大久保忠常に嫁していたため、大久保氏と奥平氏の関係は緊密であった。だが、娘婿・忠常が早世し、頼みとする忠隣は不可解な改易となり、心を痛めていた亀姫は、正純とその父・本多正信が奸計(かんけい)〈悪だくみ〉で忠隣を陥(おとしい)れた、と見なした。さらに、忠昌の転封にも我慢がならなかった。年少ゆえの移封であれば忠昌相続時の7歳の時点で行うべきであるところを、12歳まで成長した後の国替えだったからである。しかも、それまでの奥平家が10万石であったのに、正純になった途端15万石というのも承服しかねた。そこで、異母弟の第2代将軍徳川秀忠に、日光へ参拝するため宇都宮城へ宿泊する際、正純には湯殿に釣天井(つりてんじょう)を仕掛け将軍を暗殺するという計画がある、と洩らしたとされる。釣天井自体は事実無根であったが、正純は配流されることとなった。その後は、忠昌が再び宇都宮藩へ配されたというものである。
また、下総古河への国替えの引っ越しにまつわる、こんな逸話がある。本来、私物以外はそのまま新入封の家中のために残して立ち去るように法度で定められているところを、奥平家は障子、襖、畳までも撤去した。さらに、邸内の竹木まで掘り起こし、一切を持ち去ろうとした。これを聞きつけた正純の家臣が、慌てて駆けつけて国境で呼びとめ、その非を咎めたため返還したという内容であるが、真偽は定かではない。