ホリショウのあれこれ文筆庫

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第766話 秋葉原「あきはばら・あきばはら」

序文・秋葉神社と勘違い

                               堀口尚次

 

 秋葉原は、東京都千代田区秋葉原駅周辺、主として東京都千代田区外神田・神田佐久間町および台東区秋葉原周辺を指す地名である。

 第二次世界大戦後の日本において、秋葉原闇市として発展した。その後、高度経済成長とともに多様な電子機器部品〈ハードウェア〉およびソフトウェアを取り扱う店舗などが建ち並ぶ日本一の電気街として発展した。その後、バブル崩壊や、大型家電量販店、ディスカウントストアの台頭などによる家電市場の衰退で、電器店は主力商品をパソコンに移していく。これにより、パソコンを好むマニアが集中し、秋葉原は一転、オタクの街として変貌を遂げた。2 

 2004年の『電車男』により、オタクの街としてのイメージは全国的に定着し、世界的な観光地としても注目された。秋葉アキバAKIBAの略称で呼ばれる。

 現在の秋葉原に当たる地域は、徳川家康の江戸入府後、江戸幕府二代将軍・徳川秀忠の時代に神田川が現在の流路を通るように開削されると、川沿いに木材商が集まり、神田佐久間町が起立したほか、大部分は大名屋敷・旗本屋敷などで占められた。しかし、江戸の人口が拡大するにつれ、大名や旗本は大火等を契機に次々に郊外へ移転し、跡地には町民が代地として与えられるなどして町人地が拡大していった。

 大火の度に代地町が細切りに与えられ、町の付け替えも頻繁に行われたため、幕末には50近くの微細な町が複雑に入り組み、かつ方々に飛地を有する複雑な町割となっていたが、明治の初めに武家地を合わせて20町近くに整理された。

 明治2年12月の大火を受けてできた火除地〈空地〉に、明治天皇の勅命で明治3年10月に宮城(きゅうじょう)〈江戸城〉内の紅葉山から鎮火三神を勧進して「鎮火社」が創建された。しかし、江戸の街では火防の神として神仏混淆秋葉(あきば)権現が広く信仰を集めていたことから、鎮火社についても秋葉権現が祀られているものと人々が誤解して「秋葉社」「秋葉様」「秋葉さん」と呼び、火除地を「秋葉の原」「秋葉っ原」と呼んだことで、「秋葉原」の地名が誕生した

 いずれにせよ、「あきはばら」が本来だという説も「あきばはら」が本来だという説も、どちらかのみが正しいという論旨を支える歴史的資料は無く、一方のみが正しいとまでは断定できない。