序文・キリシタン
堀口尚次
細川ガラシャ〈伽羅奢 / 明智玉〉、永禄6年は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。明智光秀の三女で細川忠興の正室。諱は「たま」〈玉/珠〉または玉子。法名は秀林院。キリスト教徒〈キリシタン〉。
明治期にキリスト教徒などが洗礼名をとって「細川ガラシャ」と呼ぶようになって以降そう呼ばれる場合が多いが、クリスチャンとしては「細川ガラシヤ」を称したらしいとの主張もある。
妻が夫の姓を称するのは西洋に倣った近代以降の制度ということで「明智ガラシア」表記を採る学者もいる。そもそも彼女の婚姻から死に至るまでの間は、夫の忠興も細川の名字を称していなかった。また婚姻時より前、父の光秀も名字を織田信長から賜った惟(これ)任(とう)に改めている。
永禄6年、越後国で、明智光秀と妻・煕子の間に三女として産まれる。天正6年8月、父の主君・織田信長の発案により細川藤孝〈幽斎〉の嫡男・忠興に嫁いだ。信長の構想で家臣間の婚姻を統制しており、ここに主君の命令による婚姻「主命婚」が生まれたと考えられる。
本能寺の変の後、忠興は徳川家康に従い、上杉征伐に出陣する。この隙に、西軍の石田三成は大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャを人質に取ろうとしたが、ガラシャはそれを拒絶した。その翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませた。家臣たちがガラシャに全てを伝えると、ガラシャは少し祈った後、屋敷内の侍女・婦人を全員集め「わが夫が命じている通り自分だけが死にたい」と言い、彼女たちを外へ出した。その後、自殺はキリスト教で禁じられているため、家老の小笠原秀清がガラシャを介錯し、遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて自刃した。
尚、熊本藩8代藩主なった細川斉(なり)茲(しげ)の子孫となるそれ以後の熊本藩主やその子孫である細川護熙〈元総理大臣〉は、ガラシャの血をひく忠利の男系直系子孫ではない。因みに、ガラシャとの間に生まれた多羅は稲葉一通の正室となり、その子孫は仁孝天皇に繋がることから、今上天皇はガラシャと繋がることになる。