ホリショウのあれこれ文筆庫

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第877話 日本の時計王・服部金太郎

序文・一歩先に進む

                               堀口尚次

 

 服部金太郎〈万延元年 - 昭和9年〉は、日本の実業家、日本赤十字社常議員。服部時計店〈現セイコーグループ〉の創業者。輸入時計の販売店を開業し、のちに掛時計・腕時計の製造・販売へと事業を拡大して「世界のセイコー」の礎を築き、「日本の時計王」とも呼ばれる。

 万延元年、尾張国名古屋出身の服部喜三郎の長男として、江戸・京橋采女町〈現在の東京都中央区〉に生まれる。寺子屋で習字・算盤等を学び、11歳で近所の雑貨問屋に丁稚奉公にあがった。いずれは自分の店を持ちたいと考える金太郎であったが、同じく近所の老舗時計店に強い印象を受ける。「時計店は販売だけでなく、その後の修理でも利益を得ることができる」と考えた金太郎は、14歳の時に日本橋の時計店、2年後には上野の時計店に入り時計修繕の技術を学んだ。明治10年、金太郎は采女町の実家に戻り、「服部時計修繕所」を開業。自宅で時計修繕をする傍ら、他の時計店で職人としての仕事も続け、時計店開業のための資金を貯めた。

 明治14年、21歳の金太郎は自宅近くに「服部時計店」を開業し、質流れ品や古道具屋の時計を安く買い取り、修繕して販売する手法で利益を得た明治16年には銀座の裏通りに店を移転。この頃から横浜の外国商館との取引きを始め、輸入時計の販売を開始した。当時の日本には期日を守って支払いを行うという商習慣があまり無く、一ヶ月や二ヶ月の遅れは珍しい事ではなかったが、金太郎は期日を厳守した商取引で外国商館からの信頼を得る。外国商館は安心して多額の商品を融通し、良い物、斬新な物があれば服部時計店に優先して売ってくれる事もあった。

 時計製造を考えた金太郎は、当時懐中時計の修繕・加工を依頼していた職人を技師長に迎え、明治25年、時計製造工場「精工舎」を設立した。「精巧な製品」により、欧米に負けない時計事業を日本に興すという強い覚悟を「精工舎」の会社名に込めた。また、「良品はかならず顧客の愛顧を得る」という信念のもと、「品質第一」「顧客第一」とするモノ作りに励んだ。

 程なくして柱時計の生産に成功、明治28年には懐中時計の生産に成功し、精工舎で製造した時計の販売を服部時計店で開始した。大正2年、国産初の腕時計の製造に成功し、販売を開始。大正6年には店を会社組織に改め、株式会社服部時計店とした。大戦景気にも乗った服部時計店はアジアで欧米メーカーと覇を争うまでに成長し、金太郎は時計業界で確固たる地位を築いていった。

 「すべて商人は、世間より一歩先に進む必要がある。ただし、ただ一歩だけでよい。何歩も先に進みすぎると、世間とあまり離れて予言者に近くなってしまう。商人が予言者になってしまってはいけない」とは、金太郎の言葉であり経営の理念ともいえるものである。 ある時、「自分は、他の人が仲間同志で商売をしているときに、外国商館から仕入れを始め、他人が商館取引を始めたときには、外国から直接輸入をしていた。他人が直輸入を始めたときには、こちらはもう自分の手で製造を始めていた。そうしてまた他人が製造を始めたときには、他より一歩進めた製品を出すことに努めていた」と振り返っている。

 金太郎の孫の禮次郎が社長を務めていた時に服部時計店服部セイコーと社名を変更した。