序文・名古屋市に現存する戦争遺構
堀口尚次
愛知航空機は過去に存在した日本の航空機メーカーにして、現在の日産自動車系自動車部品メーカー愛知機械工業の前身である。日本海軍向けの攻撃機、爆撃機、水上機等を製造した。
親会社の「愛知時計製造」は明治37年に陸海軍から砲弾の信管などを初めて受注し以後は多くの兵器を生産した。特に海軍と関係が深く、明治45年に「愛知時計電機」と名を変えてからも、機雷や魚雷発射管の製造の他、艦砲用の射撃盤〈射撃データの機械式計算機〉の国産化にも協力した。
大戦中の昭和18年には航空機増産のために同社の航空機部門を独立させて「愛知航空機株式会社」になった。昭和19年の東南海地震では機体組立の中心工場だった永徳工場の製造用治具に狂いが生じ、以後の航空機生産に大きく影響した。更に昭和20年の空襲〈熱田空襲〉により主力の船方工場が大きな被害を受け、そのまま終戦を迎えた。
第二次世界大戦後は早急に民需に転換する必要に迫られ終戦直後には印刷の仕事などもしている。昭和24年に新会社「新愛知起業株式会社」を設立し、昭和27年に「愛知機械工業株式会社」と改称し現在に至っている。戦後はコニーシリーズの軽商用車などを製造、現在は日産自動車の子会社として自動車用エンジンやトランスミッションの製造等を手がけている。
現在の愛知県名古屋市港区に、通称「愛知航空機永徳機体工場スリップ跡」
通称「稲永スリップ跡」ともいわれる場所がある。スリップとは、つまり「滑る」わけであり「スロープ」「水上機用傾斜面」のことをいう。水上機は車輪の変わりに下駄〈フロート〉をつけており、地上から斜面を滑り着水するのだ。現在の「愛知機械工業株式会社永徳工場」、戦前の「愛知航空機永徳工場」の近くであり、昭和20年8月の終戦により軍需工場から民需転換された場所だ。戦争の遺構がこんなところにも現存しているのだ。
私は、過日親父とここを訪れ、このスリップから海上〈庄内川河口〉に着水していった零式水上偵察機などに思いを馳せた。奇しくも親父は、愛知時計電機株式会社のOBであり、愛知航空機の歴史探索などもしていた。時計会社が戦闘機を製造するようになり、軍需工場であることからアメリカのB-29の爆撃対象となった。愛知時計と愛知航空機で犠牲となった方々の鎮魂も兼ねた。