ホリショウのあれこれ文筆庫

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第941話 和風メッサー「三式戦闘機・飛燕」

序文・液冷戦闘機

                               堀口尚次

 

 三式戦闘機「飛燕(ひえん)」第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の戦闘機である。開発・製造は川崎航空機が行い、昭和18年に制式採用された。設計主務者は土井武夫、副主任は大和田信である。

 当時の日本で唯一の量産液冷戦闘機であり、ドイツの液冷航空エンジンDB601を国産化したハ40を搭載した。防弾・武装のない試作機は最高速度590㎞/hを発揮した。主翼より後部の機体下部にラジエーター・ダクトを搭載し、機体の空気抵抗低下と冷却効率の両立を図った。搭載エンジンのハ40が生産・整備ともに苦労が多く、常に故障に悩まされた戦闘機としても知られる。エンジンの生産遅延から、製造してもエンジンを搭載することができない、いわゆる首無しの機体が工場内に大量に並ぶ異常事態も発生した。このため、星型空冷エンジン・ハ112-IIを急遽搭載した五式戦闘機が後に生産された。

 三式戦闘機太平洋戦争に実戦投入された日本軍戦闘機の中では唯一の液冷エンジン機である。搭載エンジンには、当時同盟国であったドイツ国ダイムラー・ベンツ社が開発した離昇出力1,100馬力のDB601Aを川崎がライセンス生産したハ40を採用した。空冷エンジンが主力であった日本軍機の中にあって、本機の外形は水冷エンジン装備機特有の細身な形状を持つ。開発者の土井によれば、出力が同じ場合、液冷戦闘機の抵抗面積は空冷戦闘機に比べて20%程度も減少し、速度は6 %向上するなど空力的にも優位な形状であった。ただしラジエーターを要する分重量が増すのが欠点である。

 ドイツの航空機メーカー「メッサーシュミット」にちなみ、搭載エンジンと機体形状から「和製メッサー」とも呼ばれた。昭和15年2月に陸軍が川崎にハ40を使用した軽戦闘機キ61の試作を指示、12月から設計が開始された。昭和16年12月に初飛行したキ61試作機は591 km/hという「全くの予想外」の最高速度を発揮し、総合評価でも優秀と判定されて直ちに制式採用が決定された。しかし、DB 601は当時の日本の基礎工業力や資源欠乏から生産が難しい精緻な構造のエンジンであったこと、日本の整備兵は液冷エンジンに不慣れで整備作業そのものも難しいなど運用側にも負担となったことなどから、後々まで生産・運用ともに問題が多く発生した。