ホリショウのあれこれ文筆庫

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第942話 菅原道真の孫「英比磨」伝説

序文・末裔は於大の方の再嫁先の久松家

                               堀口尚次

 

 菅原雅規(まさのり)は、平安時代中期の貴族。右大臣・菅原道真(みちざね)の孫で大学頭(だいがくのかみ)・菅原高視(たかみ)の子。官位は従四位上・山城守。幼名を久松麿(ひさまつまろ)。英比殿(あぐいどの)〈英比磨(いびまろ)〉とも称す。延喜元年・昌泰(しょうたい)の変が発生すると、祖父の菅原道真、父の菅原高視とともに連座し、雅規尾張国への流罪となった。文章(もんじょう)博士となり、のちに左少弁(さしょうべん)を務めたという。また、村上朝で淡路守・因幡守・和泉守、円融朝で山城守など諸国の国司を務めた。天元2年8月卒去。享年61。天歴2年久松(きゅうしょう)寺を開基。末裔には久松(ひさまつ)氏〈徳川家康の生母・於大の方の再嫁先〉がいるとされる。久松氏の菩提寺・洞雲院には、英比磨の墓もある。

 愛知県知多郡阿久比町名古屋鉄道白沢駅前に、北原天満宮が鎮座する。このあたりの白沢荘〈英比荘(あぐいのしょう)〉は雅規が開拓し、天満宮雅規の住居跡と伝わる。

 以下は「広報あぐい・あぐいぶらり旅~伝説の地を歩く〈英比磨伝説〉~」から引用。

英比麿が初めて荘内を巡視したとき、入江に大河が注ぐ河口付近は、広い沢地になっていました。そこには、丈の高い片葉(かたは)の葦(あし)が一面に生い繁り、かれの来訪を歓迎するかのように、数百羽の白鷺(しらさぎ)が群れ遊んでおりました。かれは、その美しい景色に見とれて、長い間たたずんでいました。この地を『白沢』となずけよう、ここを開拓したら、きっとすばらしい美田となるに違いないと考えました。〈阿久比の昔話〉『英比麿物語』から。

 さて、この荘の開祖と仰がれた英比麿は、天寿を全うして、永い眠りにつきました。里の人々は、慈父を失ったように長い間悲しみにくれておりましたが、英比麿夫婦の木像を造って、最近まで、各家へ1日ずつお迎えし、立臼の上に新しいこもを敷いてその上に安置し、親族縁者を招いてお参りをいたしました。これは、英比麿はいつまでも生きておられて領内を巡視してくださるのだという思いで、その徳をたたえてきたもので、この地では『回り地頭(じとう)』とか『回り地蔵』と呼んでいます。英比麿の墓と回り地頭の木像は、坂部の洞雲院に祀られております。〈阿久比の昔話〉『英比麿物語』から。』

 筆者は過日、愛知県知多郡阿久比町の洞雲院〈元は久松寺〉を訪れた。隣接の墓地を探索したが墓は判別できなかったので、お寺の奥様に問い合わせたところ「久松寺殿〇〇」の墓碑のあるものが該当するとのことで確認できた。

※北原天満宮と「英比磨」の墓 筆者撮影