ホリショウのあれこれ文筆庫

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第928話 日本初の純国産ジェット機「橘花」

序文・幻のジェット戦闘機

                               堀口尚次

 

 橘花(きっか)は、第二次世界大戦末期に大日本帝国海軍が開発した双発ジェット戦闘攻撃機日本初の純国産ジェット機である。エンジン開発は主に空技廠(しょう)〈海軍航空技術廠〉が担当し、機体を中島飛行機が開発製造。

 橘花の開発は、空技廠の中口博海軍技術大尉〈後の千葉工業大学教授〉の指導のもと、松村健一技師を主任とし、これに大野和男技師らが協力して設計試作が始まった。試作機のテストパイロットは高岡迪(すすむ)海軍少佐が務めた。

 昭和19年8月、日本は高高度を飛行するための過給機付き高性能レシプロエンジンの開発にも行き詰まり、原油生産地のマレー半島と日本本土間の制海権の喪失から燃料事情も悪化していた。海軍は低質燃料、低質潤滑油でも稼動し、レシプロエンジンに比較し構成部品が少なく簡易で高性能なジェットエンジン〈噴進機関、タービンロケット〉を装備した陸上攻撃機を「皇国二号兵器」と仮称して企図し、同25日、中島飛行機に開発指示を出した。

 試作機は昭和20年6月に完成し、エンジンの耐久試験もパスしたあと、飛行試験を行うため木更津基地に運ばれ、エンジンと機体が組み合わされた。8月7日に松根油(しょうこんゆ)を含有する低質油を16分間分だけ積んだ軽荷重状態で飛行を行い、12分間の飛行に成功、これが日本で初めてジェット機が空を飛んだ瞬間であった。この時橘花には離陸用補助ロケット、アンテナ、前脚のカバーが装備されず、脚を出したままの飛行であった。

 10日に陸海軍幹部が視察に来る中、燃料を満載しての第二回の飛行が予定されたが空襲で中止され、翌11日は悪天候で順延となり、実飛行は12日に行われた。しかし離陸中に滑走路をオーバーランして擱坐(かくざ)。機体を修理中に終戦を迎えた。離陸失敗の原因は、離陸補助ロケットの燃焼終了による加速度の減少を、パイロットの高岡がエンジン不調と勘違いしたもので、離陸を中止しようと試みたが停止し切れず、滑走路端の砂浜に飛び出して脚を破損したものである。本機はそのまま3日後に終戦を迎えた。

 終戦前には数十機程度が量産状態に入っていた。その内の数機は完成間近であったが、終戦時に完成していた機体は試作の2機のみであった。