ホリショウのあれこれ文筆庫

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第782話 決死の緑十字飛行

序文・降伏受理の舞台裏

                               堀口尚次

 

 緑十字飛行とは、太平洋戦争の終戦連絡事務処理のため、昭和20年8月19日から同年10月10日まで日本機で行われていた行為の呼称。また、本航空運行に使用された機体は緑十字機と称される。

 昭和20年8月15日のポツダム宣言受諾により、後の連合国軍最高司令官総司令部・最高司令官となるダグラス・マッカーサーは、8月16日に日本の大本営に対し、日本政府、大本営の代表使節団のアメリカ領マニラへの派遣を要請した。混乱を避けるため、マッカーサーは、代表使節団の使用機材、外装、通信波長に至るまで細かく指定し、機体の塗装に関しては『全面を白色に塗り、胴体の中央部に大きな緑十字を描け』とした。「緑十字飛行」「緑十字機」という名称はこれに由来する。

 この飛行は8月19日に本土と伊江島伊江島飛行場間であり、伊江島からマニラまではアメリカ軍機で移動した。当時は厚木航空隊事件が発生し抗戦派からの妨害が予想されたため、緑十字機には米軍機が護衛として随伴したが、最後まで緑十字機への攻撃は無かった。

 敗戦直後の1945年8月19日、陸軍大本営参謀次長・河辺虎四中将郎を筆頭に外務省の代表団などを主要メンバーとする降伏全権団は、米軍の指示で千葉県の木更津海軍飛行場から沖縄県の伊江(いえ)島まで2機の飛行機で向かい、さらに伊江島から米軍機に乗り換えてフィリピンに向かった。

 全権団はフィリピンのマニラで連合軍と会談〈降伏受理協議=終戦協議〉して最高指揮官マッカーサーによる降伏要求文書を受領、連合軍の進駐詳細や全軍武装解除を中央に伝達するため、伊江島から専用の緑十字機にて帰路についた〈当初、木更津海軍飛行場を出発した1番機・一式大型陸上輸送機と2番機・一式陸上攻撃機緑十字機は、伊江島で2番機が故障したため1番機のみで帰還〉。しかし、8月20日深夜、木更津に向かう途中の遠州灘沖で遭難し、鮫島海岸〈静岡県磐田市に不時着した。深夜知らない土地での不安の中「誰かおらんか!」と声をあげると、幸いにも鮫島海岸では日干し中のイワシ盗難防止のため、住民が見張りをしていた。「急いで東京へ戻り報告しなくてはならない。」との河辺中将の言葉を受け、ここから鮫島住民、袖浦郵便局、袖浦飛行場の人達の甚大なる救援活動が行われました。こうして全権団に怪我人はなく降伏要求文書も近隣の住民の助けを得て全て回収。一行は手配された明野陸軍飛行学校天竜分教所のトラックで浜松陸軍飛行場へ移動した。そして代替機として同地にあった四式重爆撃機「飛龍」を急遽使用し、翌21日朝に出発したのち調布陸軍飛行場に無事到着した。総理官邸では東(ひがし)久(く)邇(にの)宮(みや)総理〈戦後処理内閣〉ほか主な閣僚が徹夜で代表団の帰りを待っていた。

 鮫島海岸に不時着した事故機は放置されていたが、部品は持ち去られたうえ、台風の影響で流されて水没し行方不明となっていた。その後、平成18年6月に昇降舵が鮫島海岸で見つかり、平成23年7月に増設燃料タンクが遠州灘沖で発見された。残骸は磐田市が保管している。

 後に「緑十字機の記録」の作者である岡部英一の調査により、1番機の搭乗者の中に氏名が不明な整備兵が1人居る事が分かったが、岡部が1番機副機長の駒井林平に直接質問したところ「それは言えません。墓まで持っていく約束です。」との回答があり依然として不明なままとなっている。従って、この事故については単なる整備ミスではなく意図的に行われた可能性も生じている。

 「いわた文化財だより第89号」に以下の記述がある。

『8月15日以降、終戦に反対する軍部の動き、ソ連の千島列島への上陸などがあり、終戦手続を早急に進める必要がありました。その後、連合国軍の進駐、ミズーリ号での降伏文書の調印が何事もなかったかのようにスムーズに運び、日本の戦後が始まりました。鮫島海岸に不時着した 1 機の白い飛行機 は、戦争を終息させ、平和の扉を開くための一歩だったのです。こうした記憶が薄らいだ平成 18 年 6 月に昇降舵が鮫島海岸で、平成 23 年 7 月に遠州灘沖で増設燃料タンクが発見されました。発見は偶然によるものですが、私たちに戦後の平和の大切さを考える機会を与えてくれたのではないでしょうか。』

 現在の鮫島海岸駐車場には「緑十字機不時着の碑」が建つ。

 決死の緑十字機の飛行、そして不時着し遭難した搭乗員〈全権団〉を鮫島地区の住民らが迅速な対応で助けなければ、マッカーサーが降り立った厚木飛行場のいわば『無血駐屯』はなかったのかも知れない。本土防衛戦で徹底抗戦を主張していた軍人らの収拾、ソ連の北海道への進駐阻止、正式降伏となるミズーリ号での調印式など、すべてが緑十字機が「降伏文書」を無事届けたからこそ達成されたのだ。