序文・アメリカ先住民
堀口尚次
ジェロニモは、メイティブ・アメリカン、アパッチ族のシャーマン、対白人抵抗戦である「アパッチ戦争」に身を投じた戦士。本名はゴヤスレイ。なお、部族の酋長(しゅうちょう)と誤解されている例も多いが、実際は酋長ではなく部族の「指導者」でもない。ネイティブ・アメリカン社会のチーフ〈酋長〉とは、交渉の矢面に立つ「調停者」のことであって、「指導者」や「首長」ではない。合議制社会であるネイティブ・アメリカン部族は首長制ではなく、アフリカの部族に見られるような「部族長」は存在しない。
アパッチ族などネイティブ・アメリカンには、他人が実名を呼ぶことを避ける習慣があり、家族以外に決して教えない「神聖な名前」を持っており、ジェロニモの場合も当然、これは部族外には伝わっていない。また、ネイティブ・アメリカンは伝統的に生涯に何度も名を変える風習があるので、「ジェロニモ」も、彼の本名の一つと言える。
家族がメキシコ軍に虐殺されたのを機に、アパッチ族の戦士たちとともに対白人のゲリラ戦に従事した。ちなみに戦士集団だったアパッチ族には「酋長に戦士が服従する」という義務も風習もない。戦士は結束はしてもすべて個人行動で動くものであって、戦士たちはジェロニモ個人を慕って抵抗戦をともにしたのである。また、ジェロニモは軍事的な指導をしたこともない。
メキシコとアメリカ双方は、アパッチの略奪に頭を悩ませ、何度も遠征をおこない掃討戦を試みた。しかし山岳ゲリラとも言うべき彼らの戦いは変幻自在で西部大平原のスー族と並んで、アパッチ族は最後までアメリカ合衆国に抵抗したネイティブ・アメリカンとなった。数々の戦いの中に、ジェロニモの姿があった。彼は雄弁に白人への抵抗を呼びかけ、白人と戦い続けた。ジェロニモの抵抗戦は、情報操作されて東部白人社会に大げさに伝えられた。数人殺された白人の数は、数十人、数百人となって報じられたのである。
1886年に投降して以後、ジェロニモは生涯米軍の虜囚として扱われた。その間、1904年のセントルイス万国博覧会などで人間動物園として展示されるなどした。生まれ故郷のメキシコ国境へ帰りたいというジェロニモの願いは叶わなかった。